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3月7日生まれの有名人と今日は何の日?*365日きっかけ誕生日プレゼント*

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3月7日ピエト・モンドリアン

3月7日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。

今日はどのように過ごしますか?

お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?

そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。

 

狩野探幽

1602年3月7日~1674年11月4日 職業:絵師
出身:日本(京都)

 

モンドリアンの作品、何に見える?

ピエト・モンドリアンはどんな人?

1872年3月7日~1944年2月1日 職業:画家
出身:オランダ

 

抽象表現絵画や、ミニマル・アートの初期の画家として知られています。

 

父親は地元の小学校の教頭、5人兄弟の2番目に生まれました。幼少期から、モンドリアン家では、芸術と音楽は推奨されていました。叔父が趣味で絵を描いていたことが影響し、外にスケッチに行くこともあったようです。10歳から3年間、アムステルダムの国立美術学校で伝統的な美術教育を受けています。この頃から、すでに線描よりも色彩を重視する作品を描いています。

モンドリアンの初期の作品からグリットの作品までの変遷を追うと興味深いです。(若い頃の髪の毛の量と晩年との違いも、別人というくらい変わります)使う色が途中から、三原色だけというしばりをつくっていたことも分かります。

 

1911年 38歳 アムステルダムで開催された展覧会で、キュビスム作品に接したことが刺激になり、翌年39歳~41歳の2年間、パリに滞在し、キュビスムの理論に従いながら、独自の方法を模索した幾何学的な形状の作品に取り組んでいます。

線を最小限にし、描きこまない、簡略化されたもののなかに美を見つけようとします。この時期に発表された『炊飯器と静物』という絵は、街並みのようにも見えます。

1914年 父親の病の知らせを受け、オランダに戻ります。落ち着いたら、パリに戻ろうと考えていましたが、第一次世界大戦が始まり、数年はオランダに留まっています。

パリに行けなくて残念だったかもしれませんが、国内で沢山の芸術家と知り合い、気の合う仲間とともに芸術雑誌を創刊し、芸術理論などを唱えました。抽象表現の実験が続けられますが、絵を売らなければ生活費を得ることが出来ないので、その際は売れそうな植物画などを描いていたようです。

 

https://pin.it/ax2oseisrz7qmq

 

1919年頃にはパリに戻り、1921年 49歳のときに代表作の一つ『TableauⅠ』を発表しました。これを機に、黒の線で区切られた枠の中に三色(赤・青・黄)の3色を用いる独自のスタイルに辿り着き、『コンポジション』を多数発表しています。

1940年 68歳 戦火を避けてニューヨークに移住します。モンドリアンを含め、亡命作家の特集記事がでたことで、注目され、デザイン(バウハウス)や建築、工業デザイン、ファッションなどの分野にも深い影響を与えました。

代表作の一つ、『ブロードウェイ・ブギウギ』(1942年発表)はニューヨークに渡ってから、アメリカで聴いたブギウギ音楽(BOOGIE WOOGIE)に触発され、描かれたものです。

 

 

モンドリアンの絵は建物に見えるという人も多いと思います。びじゅチューンの井上涼さんは部屋のなかの間取りに見えたみたいですね。


1942年に初個展が開催され、作品を評価する人が増えたことでの苦悩もあり、実験や試行錯誤は亡くなるまで続けていましたが、2年後、風邪をこじらせ肺炎になり、71歳で亡くなりました。

モンドリアンは分かっていることが少ないので、本が出版されたらいいな…

 

 

3月7日 ピエト・モンドリアン

 

きっかけ:

○○を区切って配置してみませんか?

 

同時代のオランダ出身者参考

この時代のオランダ出身者の多くは、活動拠点がオランダではありません。

 

同年の1872年生まれの人

 

頭の中の音楽が書けない!モーリス・ラヴェルの生涯

同時代にフランスで活躍した、クロード・ドビュッシー(1862年8月22日~ 1918年3月25日)は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』の一つ「神奈川沖浪裏」(誰もがイメージする定番の波)を見て、交響曲『海』を作曲しました。ラヴェルも浮世絵をコレクションしており、浮世絵が着想になって出来た曲があるかもしれません。そうだったらいいですね。

 

また、上記で紹介したモンドリアンとは活動時期がかぶっています。共通しているのは、影響されたのがアメリカの音楽です。聴いた音楽が年代でジャンルが異なる点が面白いと思います。

 

モーリス・ラヴェルはどんな人?

1875年3月7日~1937年12月28日 職業:作曲家
出身:フランス

代表曲:

  • バレエ音楽『ボレロ』
  • バレエ音楽『ダフニスとクロエ』
  • 管弦楽作品『スペイン狂詩曲』
  • ピアノ『亡き王女のためのパヴァーヌ』
  • ピアノ『水の戯れ』
  • ピアノ『クープランの墓』
  • ピアノ『夜のガスパール』

 

 

父親は発明家兼実業家で、音楽好きであったため、ラヴェルは6歳でピアノを始め、12歳で作曲を学びました。音楽家になることを両親は応援し、パリ音楽院に進学します。

23歳のときに、国際音楽会で作家としてデビューを果たしますが、それ以降は、入選はするものの、大賞を取ることが出来ません。以降、7年にわたり国際音楽会に挑戦しますが、大賞を取ることができません。その間、代表作の『泣き王女のパヴァーヌ』『水の戯れ』などを発表していたので、比較的知られる存在になっていました。

 

ラヴェル事件

年齢制限で30歳が最後の挑戦の年に予選に落選、さすがに関係者が驚き、波紋を呼びます。これが「ラヴェル事件」と呼ばれている不正です。ラヴェルが不正を行ったわけでもないのに、自分の名前が付けられた事件があるなんて嫌やですね。

審査員の一人、パリ音楽院の教授は自分の生徒が賞をとれるように、生徒ではないラヴェルが入れないように手をまわしていました。その件が明るみになってしまい、音楽院長は辞職、後任者が音楽院の改革をしました。

ラヴェルの才能は周知されていましたが、嫉妬の存在でもありました。作品が、ドビュッシーに似ている!盗作だ!と非難され論争が起きますが、素晴らしい曲が発表されると、批判はすぐに忘れ去られました。

 

最愛の母が亡くなり、スランプ

第一次世界大戦が勃発し、愛国心の強いラヴェルはパイロットとして志願しますが、40代になっていたので年齢的に無理がある、また身体も非常に弱かったので、その希望はかなわず、代わりに輸送兵として登録され働きました。(1915年のことです)

任務中に砲弾の下をくぐりながら輸送するような危険なこともあったようです。
大戦中の1917年、最愛の母が亡くなったことに悲しみ、創作が出来なくなり、スランプに陥ります。

1920年 45歳 ナポレオンが制定したフランスの最高勲章である、レジオンドヌール勲章にノミネートされますが、これを拒否します。(結局撤回されます)

1920年代のフランスでは、アメリカのジャズなどを取り入れた新しい音楽、エリック・サティ(1866年5月17日~1925年7月1日)が人気で、ラヴェルの存在は薄れていっていました。

 

スランプから脱却!

ようやくスランプから抜け出せたのは11年後の1928年にアメリカに渡り、非日常体験をしたことで、気持ちを新たにすることが出来たようです。高いビルが並び立つ摩天楼を見て、黒人霊歌やジャズに刺激をもらったことで、帰国してから、代表作『ボレロ』など数曲、作曲することが出来ました。

 

記憶障害に悩まされる…

しかし1927年 51歳頃から軽度の記憶障害にかかり、言葉がなかなかでてこない症状に悩まされます。さらに追い打ちをかけるように、5年後の56歳のときにパリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭い、これがもとで症状がさらに悪化します。手足が動かなくなり、手紙を書こうにも単語が書けない辛さから、翌年の1933年、パリで最後のコンサートが開かれます。

周囲の勧めもあり、スイスで療養することになりますが、症状は改善されることなく、その辛さから癇癪を起すことが多くなっていったようです。真面目な人ほど、ちゃんとできないことにイライラしますよね。

お見舞いに来た友人に、「頭の中に音楽が溢れ流れて、皆に聴かせてあげたいのに、曲が書けない」と嘆いていることから、話せるし、頭で考えることも出来る、手を動かすことが出来ないという症状だということが分かります。

手術を受け、一時的に容体は回復しますが、その後、昏睡状態になり、62歳で亡くなりました。

ラヴェルは生涯独身、弟も晩婚で子どもがいなかったので、ラヴェル家の血筋は途絶えていますが、晩年に住んでいた家はラヴェル美術館として管理され、当時のままの状態で保存されているので、暮らしの様子を知ることが出来るようです。

 

きっかけ:

非日常を体験してみませんか?

 

エピソード

ロシアの作曲家ムソルグスキーは、生前は作曲家としては食べられず、会社員をしながら作曲をしていました。生前は評価されず、42歳で亡くなりました。死後、友人で作曲家のコルサコフが、遺品整理をしていた際に曲を発見し発表しました。

完成なのか?未完成なのか分からない作品を見て、「いい曲だ!」と思ったコルサコフは、勝手に自分だったらバージョンを改訂して、コルサコフ版を作ってしまいました。これが『展覧会の絵』という曲で、一度は耳にしたことのあるお馴染みの曲です。

その後、ラヴェルのもとに『展覧会の絵』の管弦楽への編曲が依頼されます。当時、フランスで流行っていたサン・サーンスクロード・ドビュッシーなど、ムソルグスキーのような和音を多様化した様式が評価されていたため、何か得られるものがあるのではないかと考えたのではないかと思われます。

作曲するにあたり、ムソルグスキーの直筆譜を入手できないか?コルサコフ版ではない、オリジナルを切望していましたが、入手することが出来ず、結局、出版されていたコルサコフ版を元に編曲しました。『展覧会の絵』で聴くのは、ラヴェル版が圧倒的に多いようです。

 

同時代のフランス出身者 参考

出身地でみる人物~フランス編~

 

同年の1875年生まれの人 参考

 

安部公房の著書

1924年3月7日~1993年1月22日  職業:作家・劇作家
出身:日本(東京都)

代表作:

  • 『砂の女』
  • 『壁』
  • 『箱男』
  • 『他人の顔』
  • 『人間そっくり』
  • 『燃えつきた地図』

 

父親は医師、母親は作家(出産後に筆を折る)4人兄弟(2男2女)の長男として生を受け、生後8ヶ月で家族とともに満州に渡り、10代前半まで満州で過ごしています。優秀な成績だったため飛び級で中学を卒業し、日本に帰国します。

幼い頃から自宅にあっと世界文学全集や近代劇全集などを読み、過ごすことが多かったようです。

1943年 18歳 初の小説を書いています。同年に東京大学の前身の医学科に入学します。文系の学生が徴兵猶予を取り消され戦場へ送りだされるなか、戦争には行きたくないという思いがあり、家族のいる満州に戻ります。

開業していた父親の手伝いをしていた公房のもとに召集令状が届きますが、終戦を迎えます。診療所で治療をしていた際に、父親がチフスに感染し亡くなります。敗戦後は、満州の市内を転々としながら、サイダーの製造などで生計をたて、日本に帰るための資金を貯めます。

 

帰国後、医学校を卒業しますが、医者にはならないという条件付の卒業だったので、国家試験を受けることはありませんでした。何でだろう…?

この頃、美術学校で日本画を学んでいた女学生と結婚し、女性が暮らしていたアパートに転がりこみ、作家として活動を始めました。

 

同年の1924年生まれの人 参考

 

井上洋介の絵本

1931年3月7日~2016年2月3日 職業:絵本作家
出身:日本(東京都)

『くまの子ウーフ』は幼い頃に読んだ人も多いと思います。井上さんのイラストで特徴的なのは背景をベタ刷りしてカラーの面を作り、その上に描いています。独特の風合いになるのと、イラストなのに版画のような表現です。

 

代表作:

  • 『でんしゃえほん』
  • 『ぼうし』
  • 『ホウホウフクロウ』
  • 『ふりむけばねこ』

挿絵:

  • 『くまの子ウーフ』

 

同年の1931年生まれの人 参考

 

ロバート・ハリスの著作

1957年3月7日  職業:ジャーナリスト・政治評論家・作家
出身:イギリス

9月20日生まれのロバート・ハリスさんと同姓同名、綴りも同じで、お2人とも作家さんですが、3月7日生まれのロバート・ハリスさんはイギリス生まれです。

代表作:

  • 『ファーザーランド』
  • 『暗号機エニグマへの挑戦』
  • 『ポンペイの四日間』
  • 『ゴーストライター』

 

レイチェル・ワイズ出演の映画作品

1970年3月7日 職業:俳優
出身:イングランド

代表作:

  • 『ハムナプトラ』シリーズ
  • 『ナイロビの蜂』
  • 『光をくれた人』
  • 『アレクサンドリア』

 

3月7日 今日は何の日?365日のきっかけ

サウナの日

語呂合わせ 3(サ)(ウ)7(ナ)で「サウナの日」を公益社団法人日本サウナ・スパ協会が制定しました。

 

いかがでしたか?

Wikipedia情報による、3月7日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。

素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。

素敵な一日でありますように!

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