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6月20日生まれの有名人と今日は何の日?*365日きっかけ誕生日プレゼント*

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6月20日クルト・シュヴィッタース

6月20日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。

今日はどのように過ごしますか?

お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?

そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。

 

ジャック・オッフェンバック『天国と地獄』

オッフェンバックの『天国と地獄』は、運動会のBGMで使われることがあります。世代によっては、カステラの文明堂「3時のおやつは文明堂~♪」の音楽と言った方が、分かるかもしれません。

同時代の作曲家 参考

音楽家

 

ジャック・オッフェンバックはどんな人?

1819年6月20日~1880年10月5日 職業:作曲家・チェリスト
出身:ドイツ

オペレッタの原型をつくった人と言われています。

代表曲:

  • 歌劇『地獄のオルフェ』(天国と地獄)
  • 歌劇『ホフマン物語』舟歌(Barcarolle)

 

 

父親がヴァイオリン奏者だったので、幼少期から音楽の手ほどきを父親から受けたようです。

14歳でチェロを学ぶためにパリに渡り、その後、ドイツに一時帰国することはありましたが、ユダヤ系ドイツ人だったこともあり、フランスに帰化し、パリで過ごしているので、フランスで過ごした期間の方が長いです。

 

オッフェンバックは天性の商売人だった!

オッフェンバックは36歳のときに、パリの見世物小屋を買い取り、そこを劇場としてオープンさせます。オープンしてすぐにヒット作で話題になります。

それは想像を超えて評判になり、ナポレオン3世と謁見する機会を得ただけでなく、ナポレオン3世の(父親が異なる)弟=金持ちのパトロンも得ることができました。

 

演出者としての舞台そのものは順調なスタートを切りましたが、経営者としては、経験が浅いことが、赤字経営を生むことになります。

派手なことが大好きだったため、舞台を作るために糸目をつけずに作るのが原因でした。赤字を解消するために、手っ取り早く稼ぐ方法を考えます。

 

当時の劇場では、フランス政府が劇場の経営規則を決めていました。たとえば、一つの舞台では俳優は4~5人までの出演はOK、ダンサーは6人まで可など、かなり厳しい決まりがありました。

これを逆手にとり、登場人物の一人が、口がきけない騎士という設定にし、台詞の代わりにプラカードを持たせました。こうすることにより台詞を言わないので、俳優にはカウントされず、6人の人物が舞台に立てることができます。

上演できる演目の幅は広がりますが、それでも厳しい規則について、パトロンに規則を撤廃するよう働きかけてもらい、制限なしという条件の獲得に成功しています。

 

劇場経営規則は自由になっても、経営者としての手腕、派手好きは変えられないので、赤字そのものは解消されませんでした。そこで、ヒット作を考えようと作られたのが、『地獄のオルフェ』です。

当時のフランスを風刺した作品は大成功でしたが、批評家の間では評判が悪く、酷評、非難されます。これが論争になり「オルフェ論争」と呼ばれています。

論争が激化するほど、話題作を観ようと大勢の市民が劇場に足を運んだので、オッフェンバックにとっては、嬉しいバッシングでした。

 

同時代のドイツ出身者 参考

 

同年の1819年生まれの人 参考

 

エコール・デ・ボザールの学長になったレオン・ボナ

1833年6月20日 ~1922年9月8日 職業:画家
出身:フランス

幼少期は父親が経営していた本屋があったスペインのマドリードで過ごし、絵の勉強をしました。父親の死後フランスに戻り、本格的に学ぶために美術学校に入学して、肖像画家になりました。

絵画のサロンの重鎮になり、のちに母校の美術学校の学長になった人です。

フランスの美術学校の総称をボザールと言います。レオン・ボナが学長になったエコール・デ・ボザールは、17世紀に設立されたフランス最初の国立高等美術学校です。名前がよく知られている画家の多くはこの学校で学んでいました。

日本で言う、芸大みたいなものです。

エコール・デ・ボザール出身者 参考

ボナの教え子は

 

自宅改造 クルト・シュヴィッタースのメルツバウ建築

クルト・シュヴィッタースの表現方法は、絵画、コラージュ、詩、音響、彫刻、グラフィックデザイン、タイポグラフィ、パフォーマンス、インスタレーションなど様々な手法を実験的に試しています。

表現の幅が広いので、演出に関わる方々や、表現を模索している方々には、参考になると思います。

 

クルト・シュヴィッタースはどんな人?

1887年6月20日~1948年1月8日 職業:芸術家・画家
出身:ドイツ

美術史の分類では、ダダイスム、構成主義、シュルレアリスムなど幅広い分野に属しているので、カテゴライズするのは難しいです。

同時代の芸術家は、エコール・ド・パリのシャガールが同じ年に生まれています。エコール・ド・パリ他、抽象表現、キュビスム、バウハウス、アール・デコなどに分類される画家やデザイナーなどと同世代です。

西洋美術

 

同時代の日本の画家は、小出楢重が同じ年に生まれています。

日本美術

 

婦人服店を経営していた父親のもと、一人息子として誕生しました。2年後に、お店を売り、そのお金で5つの不動産を購入し、賃貸収入で生活していました。

初期の頃は、ポスト印象派の画家に影響を受けて、明るい絵画を描いていました。第一次世界大戦がはじまり、ドイツが崩壊の道をたどるなかで、作品は明るさが失われ、表現主義になっていったと言われています。

戦争中は、工場の製図工として働いていました。兵役で戦地に行かなければならないところが、理由は分かりかねますが、何らかの条件が揃っていなかったので、免除されています。

製図工として働いていた際に、シュヴィッタースはこんなことを思いました。

機械は、人間の活動のメタファーとして使われる

 

一般人には分かりにくい思考ですが、「機械は人間の精神を抽象化している」そんなふうに思ったそうです。この考え方が、のちに作品に影響を与えます。道端に落ちているもの、廃物を利用したコラージュ「メルツ絵画」と呼ばれる技法を生み出しています。※メルツ=破片・一部

「メルツ絵画」が生まれたきっかけとしてもう一つは、ロシアのデザイナー、エル・リシツキーとの交友が影響したと言われています。

 

エル・リシツキーは、あまり聞いたことがないかもしれませんが、戦後の日本のデザイナーに影響を与えています。

 

シュヴィッタースは、リシツキー他、バウハウス卒の人と出会い、文字を使ったタイポグラフィ的作品を残しています。

シュヴィッタースの実験的な詩の読み方が、詩のグラフィック作品を作って読むと、こんな風になるのかな…と思います。

 

あと面白いのは、自宅を改造して「メルツバウ」※という作品を作りました。住宅は空爆に合い消失していますが、写真が残っています。

それを見て、自宅の中がカオス…と思いましたが、お片付けが苦手な人も混沌としているので、美学を感じるものと、そうでないものの境界線は紙一重だと思いました。※バウ=建築

 

建築家のル・コルビュジエが同じ年に生まれているので、暮らすという意味での建築を対比すると面白いと個人的に思います。

ナチスが政権をとったあとは、作品が没収され、親しい人がゲシュタポに連行されます。シュヴィッタースは事情聴取をされる前にドイツを脱出し、先に逃げていた息子が住むノルウェーで合流します。

亡命先のノルウェーでも、自宅をメルツバウに改造し始めましたが、ドイツ軍が北欧にも侵攻し、命の危険があったので途中で断念し、ノルウェーからスコットランドに亡命します。

亡命先のイギリスでは、ドイツ人であったシュヴィッタースは敵国民なので、イギリスやスコットランドの収容所を転々としていますが、アメリカの美術学校から招かれたのを機に釈放されます。

戦後は、一時的に目が見えなくなったり、発作を起こしたりと、体調が思わしくなかったようですが、友人の女性芸術家が、移住先のアメリカの様子を伝える手紙とともに、アメリカンコミックのページの一部を添えてくれたのをきっかけに、ポップアートっぽい作品も制作しています。

最晩年は、メルツバウを再現しようと、ロンドンの郊外に「メルツバーン」=メルツ納屋を制作しました。納屋は現存しています。

 

6月20日クルト・シュヴィッタース

 

きっかけ:

保存したい感覚はなんですか?

 

例えば、旅行先で食べた美味しかった食事の味(北海道旅2012.mikaku)とか、祖父母の家の匂い(お盆休み2017.smell)とか、足の痛み.itaとか保存しておきたい感覚はありますか?

シュヴィッタースの作品は、残しておくのが難しいです。今も作品を見ることが出来るのは、その時代に写真や蓄音機があったからです。現代では、写真(jpg・gif・png)音声(mp4・mp5)というカタチで拡散され、誰かのWebサイトやSNSを通して、見たり、聴いたりすることが出来ます。

画像(視覚)と音楽(聴覚)は保存ができますが、それ以外の五感(味覚、嗅覚、触覚)は体感した本人の記憶で保存するしかありません。

今は、感覚を伝達できる技術が開発されており、ロボットや、スマホ、VRの技術に応用され始めています。

 

同時代のドイツ出身者 参考

 

同年の1887年生まれ 参考

 

ビーチボーイズ ブライアン・ウィルソン

野球選手に同姓同名の方がいらっしゃいますが、ミュージシャンの方のブライン・ウィルソンです。

ブライアン・ウィルソンはどんな人?

1942年6月20日 職業:ミュージシャン
出身:アメリカ

イギリスでビートルズが結成した同時期のアメリカで結成したバンドグループ、「ザ・ビーチ・ボーイズ」のリーダー兼ボーカリストです。バンドは、兄弟、従兄、学校の同級生などで構成されています。

ポール・マッカートニーは同じ年に生まれ、誕生日が2日違いです。ポール・マッカートニーはウィルソンに影響を受けたとWikipediaにありました。

代表曲:

  • 『サーフィン・U.S.A.』
  • 『素敵じゃないか』
  • 『グッド・ヴァイブレーション』

 

ブライアン・ウィルソンさんを主題にした映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディ』が2015年に公開されました。

 

同年の1942年生まれの人 参考

 

ライオネル・リッチー代表曲 『Endless Love』

1949年6月20日 職業:シンガーソングライター・作詞家・作曲家
出身:アメリカ

代表曲:

  • 『Endless Love』
  • 『Hello』
  • 『All Night Long』
  • 『Say You Say Me』
  • 『You Are』

 

ニコール・キッドマン出演の映画作品

1967年6月20日  職業:俳優・プロデューサー
出身:アメリカ(ハワイ)

代表作:

  • 『LION/ライオン 25年目のただいま』
  • 『めぐりあう時間たち』
  • 『ラビット・ホール』
  • 『ビッグ・リトル・ライズ』
  • 『ムーラン・ルージュ』

 

6月20日 今日は何の日?365日のきっかけ

世界難民の日

2000年12月4日、国際連合総会で制定されました。

ペパーミントの日

語呂合せ「20日(はっか)」6月は北海道の爽やかさのイメージで、ハッカが特産品の北海道北見市まちづくり研究会が1987年に制定しました。

国際日系デー

1868年6月20日に、最初の日本発移民がハワイに到着したことに因みます。2018年開催の第59回海外日系人大会で制定されました。

 

いかがでしたか?

Wikipedia情報による、6月20日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。

素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。

素敵な一日でありますように!

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