3月14日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。
今日はどのように過ごしますか?
お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?
そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。
元祖ワルツの父、ヨハン・シュトラウス1世
1804年3月14日~1849年9月25日 職業:作曲家・指揮者・ヴァイオリニスト
出身:オーストリア
シュトラウス家は音楽家を多く輩出しており、ヨハン・シュトラウス1世よりも、息子のヨハン・シュトラウス2世の方が、聞いたことのある曲が多く、ワルツの父として知られているのは息子の2世の方です。また次男のヨーゼフ、四男のエドゥアルトも音楽家になり、その子孫にも音楽家がいます。
同時代の音楽家は、
- 7歳年上の シューベルト 1797-1828 オーストリア
- 1歳年上の ベルリオーズ 1803-1869 フランス
- ヨハン・シュトラウス1世 1804-1849 オーストリア
- 2歳年下の ヨハン・ブルグミューラー 1806-1874 ドイツ
- 5歳年下の メンデルスゾーン(1809-1847)ドイツ
代表曲:
- 『ラデツキー行進曲』
- 『ローレライ=ラインの調べ』
父親はウィーンのナポレオンシュタットのフロリアン通りで、居酒屋を経営していました。4歳のときに、一家で転居し、新たに居酒屋をオープンさせますが、ヨハンが幼いときに、お店が倒産してしまい、一家の暮らしは一変します。
父親は借金苦からドナウ川で投身自殺、母親は過労で病死、孤児となってしまったヨハンは親戚の家に引き取られ、製本屋に奉公にでます。
ヨハンは仕事に興味がなく、ご近所さんからヴァイオリンの手ほどきを受けます。音楽に興味があったのは、父親が経営していた居酒屋にも、流しの楽士が来て、演奏することが多かったので、幼い頃から音楽を聞いて育ったことが影響しているようです。
楽団入り・作曲家として
15歳になったヨハンは楽団に入り、3歳年上の楽団員と仲が良くなり、一緒に下宿生活をします。楽団長が給料を使い込んでしまうため、楽団員のなかで独立をしようと考えたランナー兄弟に誘われ、ヨハンも一緒についていきます。そこで、前の楽団で使っていた楽曲が使えないので、自分たちで作曲をする必要に迫られ、ヨハンは音楽理論の勉強を始めます。
ランナーと仲たがい
やがてランナー楽団は、出演依頼が絶えない人気な楽団へと成長していきました。そこでランナーは、楽団を2つに分けて、その1つをシュトラウスに任せてくれるようになります。これで沢山の依頼にも応えられると思いきや、シュトラウス楽団の方に、人が集まるようになってしまったので、両者の仲が悪くなります。
ヨハンは、町娘と結婚をし独身ではなくなるので、給与アップをランナーに申し出ると、拒否されてしまい、さらに溝が深まります。シュトラウスが独立するのが目に見えて分かっていたランナーは、シュトラウスが作曲したワルツを買い取り、自分の作品として公刊してしまいます。
これを機に対立がさらに深まり、演奏会での舞台の上で、口げんかと乱闘騒ぎを起こし、決別します。
長年、ライバルだったランナーが急逝し、舞踏会及び、コンサートでの活動をヨハンが独占できるようになったのを機に、ワルツの王と評されるようになりました。
息子、ヨハン・シュトラウス2世との関係
その頃、息子ヨハン2世は、父親の影響で音楽家になることを夢見ていましたが、音楽家として食べていくことの苦労を知っていたヨハンは猛反対し、息子を無理やり工科大学に入学させます。
音楽の情熱を諦めきれなかった息子ヨハン2世は、大学を中退し、音楽の勉強を始めます。その行動を知ったヨハンは、あらゆる手段を使って、デビューを妨害し、ウィーン中のコンサートホールやお店で息子が活動出来ないよう圧力をかけました。
さらには、新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせるまでに発展…ヨハン1世は若い愛人をつくり、生活費を一切入れなかったので、息子ヨハン2世は、母と弟たちを養うために必死でしたが、親子の溝は深まるばかりでした。
『ラデツキー行進曲』
1848年44歳 三月革命が勃発し、ヨハンは革命側に行進曲を提供します。ヨハンは君主制の打倒を望んでいたわけではなかったので、オーストリア帝国軍の将軍を讃える『ラデツキー行進曲』を作曲し、どちらにも曲を提供しているヨハンは、革命軍にしてみれば訳の分からない行動で、裏切り者というレッテルを貼られてしまいます。
行進曲の定番であるこの曲を聴いた政府軍の士気が上がり、ウィーンが革命の戦場にならなかったのは、ヨハン・シュトラウスの功績であるとも言われています。
ウィーンは戦火にはならなかったけれど、その影響で閑散して、音楽家として売上がなかったので、演奏旅行でイギリスに行きます。このイギリス演奏旅行の間に、体調不良になり亡くなりました。
ヨハンの葬式には10万人以上のウィーン市民が参列したと言われています。ヨハンの死後、シュトラウス楽団は息子であるヨハン2世が引き継ぎ、その後は四男のエドゥアルトが引き継いだようです。
ヨハンとランナーは、ウィーン中央墓地に隣同士で埋葬されているようです。
きっかけ:
親子の関係は円満ですか?
同時代のオーストリア出身者参考
- 作曲家 ヨハン・シュトラウス1世 1804-1849 →ココ!
- 作曲家 (リスト) 1811-1886 オーストリア領ハンガリー
- 菓子職人 フランツ・ザッハー 1816-1907
- 作曲家 フランツ・フォン・スッペ 1819-1985
- 作曲家 アントン・ブルックナー 1824-1896
- 作曲家 ヨハン・シュトラウス2世 1825-1899
- 皇后 エリーザベト 1837-1898 (生まれはドイツ)
同年の1804年生まれの人 参考
- 作曲家 ヨハン・シュトラウス1世 1804-1849
- 作家 ジョルジュ・サンド 1804-1876 →ショパンの元カノ
フェルディナント・ホドラー
1853年3月14日~1918年5月19日 職業:画家
出身:スイス
同年の1853年生まれの人 参考
- 医学者 北里柴三郎 1853-1931
- 美術史家 アーネスト・フェノロサ 1853-1908 米
- 画家 フェルディナンド・ホドラー 1853-1918 スイス
- 画家 フィンセント・ファン・ゴッホ 1853-1890 オランダ
- 画家 カール・ラーション 1853-1919 スウェーデン
- 建築家 ウラジーミル・シューホフ 1853-1939 ロシア
徳富蘇峰
1863年3月14日~1957年11月2日
職業:ジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家
出身:日本(熊本県)
http://www.soho-tokutomi.or.jp/
http://www.toshihiro.co.jp/tokutomi/sohoukinenkan
同年の1863年生まれの人 参考
- 美術家 岡倉天心 1863-1921
- 創業者 ヘンリー・フォード 1863-1947
- 画家 ポール・シニャック 1863-1935
- 画家 エドヴァルド・ムンク 1863-1944
IQ160以上の天才 アルベルト・アインシュタインの脳
アインシュタインは、IQ160~190(推定)をもつ天才として知られていますが、近年はアスペルガー症候群だったのではないか?とも言われています。
死後、遺族の同意なしに、脳を持ち帰った解剖医が40年以上自宅で保管し、脳のスライスを配布していたため、博物館などで見る機会が多いようです。遺族の同意なしは問題ではあるけれど、保管されていたために、研究され、一般人の脳との違いが明らかになっています。
- 右脳と左脳の間のシワのような溝がアインシュタインは浅い
- 一般の人の脳に比べ、アインシュタインの脳は軽かった
- 神経細胞は変わらないが、グリア細胞(神経細胞に栄養素を運ぶために働く細胞)が多い
アルベルト・アインシュタインはどんな人?
1879年3月14日 ~1955年4月18日 職業:理論物理学者
出身:ドイツ→アメリカ
1921年にノーベル物理学賞を受賞しました。
父親は学生時代、数学が好きで研究者の道に進むことを望んでいましたが、家庭の経済事情から断念し、羽毛寝具を売るお店を経営していました。アインシュタインが生まれた翌年に、電気機器を製造する会社を弟と立ち上げ、営業を担当していました。
アインシュタインは5歳まで言葉を発せず、両親を心配させます。家族で夕飯を食べているときに、「スープが熱すぎる」と発したことに、両親は驚き、何故、今まで何も話さなかったのか?と問うと、アインシュタインは、「話す必要がなかった」と答えたそうです。
興味のあるものだけでOK!
5歳のときに、父親から方位磁針をもらったことをきっかけに、自然界の仕組みに興味をもつようになります。6歳の頃には、ヴァイオリンを習い始めています。
この頃から公立学校に通い始め、7年間教育を受けますが、軍国主義が強い校風には馴染めなかったようです。学校の成績は奮わなかったようですが、父親と同じく数学に関しては非凡な才能を見せ、9歳の頃にピタゴラス定理を知り、12歳のときにユーグリット幾何学の本をもらい、独学で習得します。友人から天文学の話を聞き、物理学に関心をもつようになります。
父と叔父が始めた、電気器具を製造する会社は経営難で、新たな商業チャンスを求めて、一家はイタリアミラノに引っ越すことにします。アインシュタインは学校があったので、残ります。このとき父親は、電気工学の道に進むといいかもしれないと考えていました。
しかしアインシュタインは、学校が嫌いで医師から診断書を書いてもらい、それを口実に退学し、家族を追ってイタリアに行きます。
夢をみたのがきっかけで相対性理論が誕生
スイスの名門学校に受験するも、総合点が基準に足りず、不合格かと思いきや、数学と物理の点数が最高点だったため、校長が入学を認めてくれました。
アインシュタインは昼休みに学校の庭で寝転んでいるときに、不思議な夢を見ます。それは光の速さを追いかける夢で、これが相対性理論を生み出す、最初のきっかけになったと言われています。
大学の講義は興味のあるものだけは出席していましたが、得意な物理の実験は1、電気技術は6と、興味の対象であっても成績は極端な違いがありました。また化学の実験中に爆発事故を起こしてしまい、パニック症候群に陥ったこともあります。
教員免許取得、先生だった時期もある
この頃、アインシュタインは教師宅に下宿していましたが、教師の娘、1歳年上のマリーと恋仲になります。マリーは教員免許を取得し、赴任先の学校に近いところに引っ越してしまったため、社会人と学生との違いに関係が冷めてしまったようです。
アインシュタインは、大学で数学と物理学の教育資格を取ります。大学に残ることも選択肢にあったと思いますが、物理学部長とは不仲で、助手になることが出来ませんでした。そのため、保険外交員や代理教員や家庭教師のアルバイトで、収入を得ていた時期があったようです。また仕事をしながら、論文を執筆していました。
卒業後、スイス国籍を取得します。ドイツ国籍をもっていましたが、兵役義務から逃れるためにドイツ市民であることを放棄したため、スイス国籍を取得するまでの数年間は無国籍でした。スイスでも徴兵義務はありましたが、偏平足を理由に免除されています。
在学中からお付き合いしていた女性との間に、娘が誕生します。
子どもが生まれたのでちゃんと就職しないといけないと思ったのか?父親の口利きでスイスの特許庁に就職します。比較的、自由な時間があったので、特許の申請書類の中から、発明理論や数式を学ぶ時間として使っていたようです。恋人ミレーバと正式に結婚し、翌年、長男が誕生します。
1905年 26歳 奇跡の年と呼ばれ、アインシュタインは5つの論文を発表しました。
1906年 27歳 特許庁で昇進します。
1909年 30歳 特許庁を辞職し、チューリッヒ大学の准教授に就任します。
1910年 31歳 プラハ大学で教授に就任します。次男エドゥアルトが誕生します。
同じ誕生日のヨハン・シュトラウス四男の名前もエドゥアルトです。
1913年 34歳 ベルリンに移住、故郷ではとこのエルザと再会し好意をもちます。そのことを妻ミレーバに悟られ、長男、次男を連れ、チューリッヒに戻ってしまったので、別居生活が5年ほど続きます。(長女の存在がいつの間にか消えていて、その後が分からない)
5年後、離婚手続きが終了しますが、アインシュタインが慰謝料と養育費を払うことを拒否したため泥沼の争いになります。払うだけのお金がなかったので、結局、未来に取るかもしれないノーベル賞の賞金を譲渡するという条件で離婚が成立します。同年にエルザと再婚します。
1916年 37歳 一般相対性理論を発表します。
1921年 42歳 ノーベル賞を受賞しました。賞金は元妻のミレーバに渡りました。
1922年 43歳 夫婦で日本を訪問し、43日間滞在しました。
きっかけ:
睡眠時間はどのくらいですか?
アインシュタインは、1日10時間寝るロングスリーパーでも知られています。
近年、相対理論よりも、アインシュタインが発見した最大の功績として注目されているのが、資産の運用(投資)の考え方で使われることの多い「複利思考」です。
簡単に言うと、利子が利子を生むため、長期間ほったらかしにしておいた方が、利益が得られるという話です。国が力を入れている、自分の年金をつくる、個人確定拠出年金(iDeco)やニーサ(Nisa)の説明では、必ず「複利」の話が登場します。
アインシュタインも、まさか投資の話で、自分の名前がでてくるとは思っていなかったでしょうね。
同時代のドイツ出身者 参考
- 作曲家 R・シュトラウス 1864-1949
- 画家 パウラ・モーダーゾーン・ベッカー 1876-1907
- 物理学者 アルベルト・アインシュタイン 1879-1955 →ココ!
- 画家 フランツ・マルク 1880-1916
- 建築家 ブルーノ・タウト 1880-1938
- 児童文学作家 ワルデマル・ボンゼルス 1881-1952
- バウハウス創始者 ヴァルター・グロピウス 1883-1969
- 菓子職人 カール・ユーハイム 1886-1945
同年の1879年生まれの人 参考
- サントリー創業者 鳥井信治郎 1879-1962
- 物理学者 アルベルト・アインシュタイン 1879-1955 独
- 小説家 永井荷風 1879-1959
- イラストレーター E・H・シェパード 1879-1976 英
- 画家 パウル・クレー 1879-1940 スイス
クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソン
1933年3月14日 職業:ミュージシャン・音楽プロデューサー・作曲家・編曲家
出身:アメリカ
マイケル・ジャクソンの『Thriller』はギネス・ワールド・レコーズに史上最も売れたアルバムとして認定された曲ですが、それ以外にもマイケル・ジャクソンの歌を多く手掛けています。
マイケル・ジャクソンの代表曲
- 『Thriller』
- 『Billie Jean』
- 『Beat It』
- 『Rock With You』
- 『Man In The Mirror』
- 『Bad』
それ以外の代表曲:
- 『愛のコリーダ』
- 『Soul Bossa Nova』→映画『オースティン・パワーズ』テーマ曲
同年の1933年生まれの人 参考
- サックスプレイヤー 渡辺貞夫 1933-
- 歌手 ニーナ・シモン 1933-2003 米
- 芸術家 オノ・ヨーコ 1933-
- タレント 高木ブー 1933-
- 音楽プロデューサー クインシー・ジョーンズ 1933- 米
- 放送作家 永六輔 1933-2016
- ミュージシャン ジェームス・ブラウン 1933-2006 米
- 映画監督 伊丹十三 1933-1997
- 映画監督 ロマン・ポランスキー 1933- ポーランド
- 声優 大山のぶ代 1933-
- 俳優 草笛光子 1933-
- 漫画家 藤子・F・不二雄 1933-1996
3月14 今日は何の日?365日のきっかけ
ホワイトデー
バレンタインデーのチョコをもらった男性が、女性にお返しをする日です。
関連してキャンディーの日・マシュマロデーでもあります。
数学の日・パイの日
円周率の日でもあることや先述の通りアルベルト・アインシュタインの誕生日であることに因みます。実用数学技能検定を主催する財団法人日本数学検定協会(数研財団)が、1997年に制定しました。
「3.14 ≒ π(パイ)」ということから日本パイ協会が2002年に制定しました。
国際結婚の日
日本政府が、1873年(明治6年)3月14日に国際結婚を初めて公式に認可したことに因みます。
100米ドル紙幣の肖像でお馴染みのベンジャミン・フランクリンの子孫である、ロバート・W・アーウィン(1844年1月7日~1925年1月5日)はハワイに渡った日本女性と結婚、これが日本における国際結婚の適用第一号です。
いかがでしたか?
Wikipedia情報による、3月14日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。
素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。
素敵な一日でありますように!