6月24日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。
今日はどのように過ごしますか?
お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?
そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。
印象派が流行っていたときのポーランドの画家ヤン・マテイコ
ヤン・マテイコはどんな人?
1838年6月24日~1893年11月1日 職業:画家
出身:ポーランド
フランスで印象派~ポスト印象派の画家が奮闘していたとき、イギリスではラファエル前派、アーツ・クラフト運動が起きていました。
フランスの隣の隣のポーランドでは地味路線、写実主義が流行っていたのか?は分かりかねますが、ヤン・マテイコはポーランド分裂を主題にした画家として知られています。
ポーランドは位置的に、東はロシア、西はドイツ、南はオーストリアなどの強国に囲まれ、領土奪い合い激戦地、戦いが起きる度に分裂され隣国に吸収されていた時代が長いです。
おおまかな美術史の流れは下記です。このなかで年齢が近いのは、4つ年上の
ヤンの父親は貴族宅で家庭教師をしていました。ヤンは11人兄弟の9番目の子どもとして生まれますが、ヤンが8歳のときに母親が亡くなり、ヤンを含む兄弟たちは叔母によって育てられました。兄2人は従軍し、一人は亡くなっています。
ヤンは近眼だったため、読み書きが苦手、母国語のポーランド語も流暢に話すことは出来なかったようです(チェコ訛りが強かった)。
そのためか?成績が悪く退学、絵を描く力は秀でていたため、美術学校に入り、指導を受けました。政府から奨学金をもらい、ドイツとウィーンの美術アカデミーで2年ほど学び、帰郷したあとは、ずっと国内にとどまり暮らしました。
1860年22歳 描きためたポーランドの歴史記録の画集を発表。これによりポーランド国民の愛国心を駆り立てることを目的としていたようです。
1863年25歳 ロシア帝国からの独立を目指し「一月蜂起」が起きます。
マテイコは体調不良を理由に蜂起には加わらず、翌年に結婚し、4人の子どものお父さんになりました。
「一月蜂起」の前の1830年、マテイコが8歳のときにおきた「十一月蜂起」で活躍したのが、エミリア・プラテルという伯爵夫人です。ポーランド・リトアニアの貴族で、幼少期からフランスのジャンヌ・ダルクなど女性革命家に憧れて、馬術や射撃に興味を示し訓練していたようです。
エミリアが24歳の頃に起きた「十一月蜂起」で、髪を切り軍服を着用し戦いを先導、大尉まで昇進したというツワモノです。病に倒れ、25歳で亡くなっています。
1967年29歳 ポーランドの戦を題材にした絵画が、パリ万国博覧会で金賞を受賞します。この絵画が出品されるまで、ヨーロッパ諸国ではポーランドの情勢は知られていなかったようです。
ポーランドが戦場になったとき、隣の隣では万国博覧会開催で湧いている、歴史上ずっと地図のなかに存在しない国の実情を知ってもらいたかったんでしょうね。絵は評価され、生涯画家として安定した暮らしが出来ました。
https://www.pinterest.jp/morichi123/jan-mateyko/
マテイコが金賞をとった1967年のパリ万国博覧会は2回目の開催で、日本が初めて参加した年です。
この頃の日本は幕末で、渋沢栄一は会計兼書記官として同行しており、パリ万博のあとヨーロッパ各地を回り見たものが、渋沢栄一の人生を変えたきっかけになったので、1967年のパリ万国博覧会は、日本にとっても重要な国際イベントの一つだったと言えそうです。
第1回目のパリ万国博覧会は1855年に開催されました。4年前の1851年にロンドン万国博覧会が好評で(ジョセフ・パクストンが設計した水晶宮が目玉になった)、対抗して開催されたわけですが、この大会で、フランスのボルドーワインをブランド化するという狙いがありました。
この第1回目のパリ万博で、ギュスターブ・クールベは作品の展示審査に落ちて、会場の横に小屋を建てて、入場料をとって作品を展示しました。これが世界初の「個展」と呼ばれています。
出品した作品は、『画家のアトリエ』と『オルナンの埋葬』で、『オルナンの埋葬』は、ヤン・マテイコが出品した『レイタン、ポーランドの没落』に似通うものを感じます。
ヤン・マテイコが金賞を受賞したとき、クールベは、「ちっ」と思ったかもしれませんが、伝えたいことが明確であることは伝わりやすいという意味での強みなのかもしれません。
第一次世界大戦が終結されるまで独立国家ではなかったポーランドと日本は、あまり関係がないように思えますが、意外と関わりがあります。「一月蜂起」の際に10万人以上のポーランド人がシベリアに流刑にされました。シベリアで孤児になってしまったポーランドの子どもたちを救ったのが、日本軍と赤十字でした。
またナチスに追われポーランドからリトアニアに逃亡した6000人のユダヤ人に日本のビザを発行したリトアニア領事代理の杉原千畝さんの任務は、ポーランド軍との協力関係を築くことでした。
ポーランドの人口は日本の3~4分の1ほどですが、出生率が日本と同じです。興味深いのは、出生率は低いのに日本ほど高齢化ではありません。祖国に留まれなかった時代が長かったためでしょうか。
同時代のポーランド出身者 参考
- 作曲家 ショパン 1810-1849
- 画家 ヤン・マテイコ 1838-1893
- 言語学者 ルドヴィコ・ザメンホフ 1859-1917
- 物理学者 マリー・キュリー 1867-1934
- 革命家 ローザ・ルクセンブルク 1871-1919
- 画家 モイズ・キスリング 1891-1953
- 画家 タマラ・ド・レンピッカ 1898-1980
- ハーゲンダッツ創業者 ルーベン・マタス 1912-1994
この時代のポーランド出身者のほとんどが、活動場所がポーランドではありません。
1838年生まれの人たち参考
- 考古学者 エドワード・S・モース 1838-1925 アメリカ
- 作曲家 ビゼー 1838-1875 フランス
- 飛行船技術者 ツェッペリン 1838-1917 ドイツ
- 物理学者 エルンスト・マッハ 1838-1916 オーストリア
- 貿易商人 トーマス・グラバー 1838-1911 スコットランド
- 化学者 ウィリアム・パーキン 1838-1907 イギリス
- 女王 リリウオカラニ 1838-1917 ハワイ
- 政治家 大隈重信 1838-1922 日本
フィンランドの画家ヒューゴ・シンベリ
1873年6月24日~1917年7月12日 職業:画家・デザイナー
出身:フィンランド
フィンランドで活躍した象徴主義の画家と言われています。
上記で紹介した大まかな美術史の流れで言うと、フランスではフォーヴィスム、アール・ヌーヴォーからアール・デコ、ドイツではバウハウス、オーストリアではウィーン分離派が主流だったとき、フィンランドで活躍した画家です。
https://www.pinterest.jp/morichi123/hugo-simberg/
代表作の『傷ついた天使』から、同じく天使をモチーフにした画家パウル・クレーは6歳年下、スイスで誕生し、おもにドイツで活躍しました。
年齢が近いのは1つ年上のモンドリアン(オランダ)です。
同時代のフィンランド出身者 参考
- 作曲家 シベリウス 1865-1957
- 建築家 エリエル・サーリネン 1873-1950
- 建築家 アルヴァ・アールト 1898-1976
- 児童文学作家 トーベ・ヤンソン 1914-2001
- マリメッコのデザイナー マイヤ・イソラ 1927-2001
同年1873年生まれの人たち参考
- 実業家 小林一三 1873-1957 阪急グループ創業者
- 歌人 与謝野鉄幹 1873-1935
- 作曲家 セルゲイ・ラフマニノフ 1873-1943 ロシア
- 考古学者 ハワード・カーター 1873-1939 イギリス
- 小説家 アルフレッド・ジャリ 1873-1907 フランス
- 小説家 泉鏡花 1873-1939
ミニマルアートの先駆け?モンドリアンやヘリット・リートフェルト
ヘリット・リートフェルトはどんな人?
1888年6月24日~1964年6月25日 職業:建築家・デザイナー
出身:オランダ
画家のモンドリアンが影響を受けたもしくはモンドリアンに影響された建築家です。
オランダで起きた美術運動「デ・ステイル」のメンバーはヘリット・リートフェルトやモンドリアンがいました。このグループは画家よりも建築家の割合が多かったのか?絵画よりも建築を重視したので、モンドリアンはメンバーと意見の相違があり、数年で脱退しています。
ヘリット・リートフェルトはモンドリアンの絵が立体的になったような建築や椅子を手掛けています。手掛けた仕事の一つ、オランダのユトレヒトにあるシュレッダー邸は2000年にユネスコ世界遺産に登録されました。
世界最初の三色旗
オランダの国旗は、赤・白・青の3色の横ストライプですが、世界で最初の三色旗はオランダでヨーロッパの国旗事情に影響を与えたと言えると思います。
この旗は別名「プリンスの旗」と呼ばれ、赤は勇気、白は信仰心、青は忠誠心を指しています。
トリコロールで有名なフランスの国旗はオランダの国旗をマイナス90度に横回転した配色です。
モンドリアンの絵画にも共通しますし、同じくオランダ出身、絵本作家ディック・ブルーナの『ミッフィー』の色彩構成にも類似するものがあります。
使用している色は赤・青・黄の三原色が基本ですが、ディック・ブルーナは緑もあり、白と黒はどちらにも共通しています。赤・青・黄の3色+白と黒があれば、無限に色が作れますね。
モンドリアンは、抽象絵画の初期の画家として知られていますが、抽象表現絵画は1960年代にアメリカで起きたミニマルアートの礎にもなっており、ミニマルアートの初期画家とも言えると思います。
同時代のオランダ出身者参考
- 画家 ゴッホ 1853-1890
- 医師 ウィレム・アイントホーフェン 1860-1927
- 画家 モンドリアン 1872-1944
- 画家 エッシャー 1898-1972
- 画家 ウィレム・デ・クーニング 1904-1997
- 絵本作家 レオ・レオニ 1910-1999
- 写真家 エド・ファン・デア・エルスケン 1925-1990
- 絵本作家 ディック・ブルーナ 1927-2017
同年1888年生まれの人参考
- 画家 安井曾太郎 1888-1955
- 建築家 ヘリット・リートフェルト 1888-1964 オランダ
- 画家 ジョルジョ・デ・キリコ 1888-1978 イタリア
- 芸術家 オスカー・シュレンマー 1888-1943 ドイツ
- 劇作家 ユージン・オニール 1888-1953 アメリカ
- 芸術家 ヨハネス・イッテン 1888-1967 スイス
- 小説家 菊池寛 1888-1948
建築家 谷口吉郎の代表作
1904年6月24日〜1979年2月2日 職業:建築家
出身:日本(石川県)
代表作:
- 藤村記念館(岐阜県 1958年)
- 石川県美術館 (現・石川県立伝統産業工芸館)(石川県 1959年)
- 帝国劇場(ロビー・客席)(東京都 1966年)
- 東京国立近代美術館 (東京都 1969年)
- 迎賓館和風別館 (東京都 1974年)
ミニマルミュージック先駆者 テリー・ライリーのIn C
1935年6月24日 職業:作曲家
出身:アメリカ
ミニマルミュージックの代表的な作曲家の一人として知られています。
代表作:
- 『A Rainbow in Curved Air』
- 『In C』
ミニマルミュージックとは何?
聴いた方が分かりやすいと思います。
きっかけ:
「ミニマル」(必要最低限)にしたいものやことは何ですか?
1960年代に流行った「ミニマリズム」は、装飾や説明を極限までそぎ落とした方法ですが美術・音楽・建築・哲学・文学・ファッションなどの分野に取り入れられました。
昨今では、必要最低限のモノで生活するミニマリストという生き方にも派生します。情報過多の現代では、「考えても仕方のないことは悩まない、時間を使わない」というミニマル思考も普通になりそうです。
省略させることによって見える面白さ、美しさも本質を追及し、本当に大切なことを考えるきっかけになると思います。
知ってる?ミニマルとミニマムと違い
2つとも形容詞で同じように使われているので、ほぼ違いがないように思いますが、ちょっと異なります。
- ミニマル=minimal 必要最小限(最低限)の 最も少ない
- ミニマム=minimum ある定められた範囲における最小限
※ミニマムは形容詞だけでなく名詞としても使われます
ジェフ・ベック
1944年6月24日 職業:ミュージシャン・ギタリスト
出身:イギリス
犬童 一心監督の映画作品と著書
1960年6月24日 職業:映画監督
出身:日本(東京都)
代表作映画:
- 『ジョゼと虎と魚たち』
- 『メゾン・ド・ヒミコ』
- 『眉山-びざん-』
- 『グーグーだって猫である』
- 『ゼロの焦点』
きっかけ:
コミック、小説、随筆、など好きな作家の作品を違うかたちで伝えてみませんか?
犬童一心監督は漫画家の大島弓子さんのファンで、3作を映画化しています。
エイドリアン・シェリー監督の映画作品
1966年6月24日~2006年11月1日 職業:俳優・映画監督・脚本家
出身:アメリカ
代表作:
- 「ウェイトレス おいしい人生のつくりかた」
6月24日 今日は何の日?365日のきっかけ
ドレミの日
1024年6月24日、イタリアの修道士グイード・ダレッツォ(991-1050年)が「ドレミファソラシ」の階名唱法を考案しました。
「ドレミファソラシド」や五線譜がないと、どうやって曲を記録していたのか?不思議な感じがしますが、共通する音楽のルールがなかった時代も長いです。
グイード・ダレッツォは聖歌の一つ『ヨハネ讃歌』の音楽構成が、各小節の最初の音が一音ずつ上がっていることに気づきます。その歌詞の頭文字をとり、「ウトレミファソラ」までの階名をつくりました。
「ウト」が発音しにくいので、「ド」になり、のちに最後の歌詞からSaサ→シが付け加えられ、「ドレミファソラシ」の階名が出来たと言われています。
『ヨハネ賛歌』
Ut queant laxis Utウト→ド 「~のように」
Resonare fibris Reレ→レ「響かせる」
Mira gestorum Miミ→ミ 「奇跡」
Famuli tuorum Faファ→ファ「親族」
Solve Polluti Soソ→ソ 「溶かす」
Labii reatum Laラ→ラ 「くちびる」
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Sancte Iohannes Saサ→シ 「聖ヨハネ」
この音階を覚えるためにグイード・ダレッツォは、「手」を使った指の各所で音階を示すという方法を考案したことにより、一般的に知られるようになったそうです。逆に難しく感じてしまいますが、体の部位を使った暗記法は確かに定着しやすいですよね?
1024年の日本は平安時代です。1000~1014年頃、清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』が登場した頃なので、十二単や寝殿造りなどの建築様式などを思い浮かべるといいかもしれません。
「ドレミファソラシ」ではありませんが、ひらがなやカタカタが出来たのは、平安初期と考えられているので、難しかったことをシンプルにし、誰もが使えるようにしたという点では、共通していると思います。
空飛ぶ円盤記念日・UFO記念日
1947年6月24日、アメリカの実業家ケネス・アーノルドがワシントン州レーニア山付近で強い閃光を目撃、これが初のUFOの目撃談と言われています。
いかがでしたか?
Wikipedia情報による、6月24日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。
素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。
素敵な一日でありますように!