2月19日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。
今日はどのように過ごしますか?
お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?
そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。
コペルニクス的転回でも問題がなかった
コペルニクスが天動説(地球中心説)から地動説(太陽中心説)にガラリと変えたことを揶揄した言葉で「コペルニクス的転回」というものがあります。物ごとの見方が180度変わることを指します。コペルニクスも自分の名前がついた言葉が出来るとは想像もしていなかったでしょうね。
ニコラウス・コペルニクスはどんな人?
1473年2月19日~1543年5月24日 職業:天文学者・カトリック司祭
出身:ポーランド
父親は商売人で裕福な家にコペルニクスは生まれますが、母親は幼少の頃に、父親は10歳の頃に亡くなり、コペルニクスと兄弟たちは、司祭であった母方の叔父に育てられました。
大学で教養科目を学び、天文学に触れる機会があり、コペルニクスは科学に興味をもつようになります。卒業後は、叔父の紹介で、司祭の仕事につき、安定した生活を送っていました。
1年ほどイタリアの大学に留学し法律を学び、戻ってくると、今度は医学を学ぶために再度留学します。この時代の医療では、必須科目で占星術も学ぶようです。その後はポーランドに戻り、司祭と医者の兼業で忙しい日々を送っていましたが、夜は天体観測に励みます。
地動説(太陽中心説)を唱えたきっかけ
天体観測を続けているうちに、いくつかの遊星が、天動説(地球中心説)では説明のつかない動きをしていることに気づき、太陽が地球の周りをまわっているのではなく、地球が自転しながら、太陽の周りをまわっているのではないか?という地動説(太陽中心説)を37歳のときに同人誌に発表します。それは、友人たちに配ることが目的で、一般的にほとんど知られることはなかったようです。
コペルニクスは、自分の説によって教会を揺るがすようなことをしたい、広めるために本を出版したいという考えはなかったようです。しかし、唱えた地動説は枢機卿の耳にも入っており、賞賛の手紙をもらったこと、親友の司教から出版を何度も勧められるうちに、出版してみるか!と言う気持ちになったようで、論文を書き上げます。
校正を依頼しているときに脳卒中で倒れ半身不随になり、仕上がった校正刷りは、亡くなった当日に届きました。地動説を発表したことにより問題になっても、ガリレオのように宗教裁判にかけられることもなく、ご本人が亡くなっているので、騒ぎようがなかったようです。
本日は、地動説を主張したコペルニクスの誕生日に由来した「天地の日」です。
きっかけ:
考え方がガラリと変わったことはありましたか?
同時代の人 参考
- 画家 デゥーラー 1471-1528 独
- 画家 クラーナハ 1472-1553 独
- 天文学者 ニコラウス・コペルニクス 1473-1543 ポーランド
- 画家 ミケランジェロ 1475-1564 伊
- 法律家 トーマス・モア 1478-1535 英
ミニマル彫刻の祖 コンスタンティン・ブランクーシ
1876年2月19日〜1957年3月16日 職業:彫刻家
出身:ルーマニア
ブランクーシはロダンに憧れて、ロダン工房に入るも「大樹の陰では何も育たない」と考え、2ヶ月で去った人です。そして自身の彫刻を極め、ミニマルな抽象彫刻が生まれます。20世紀、ミニマル・アートの先駆けになった作品は、イサム・ノグチなどにも影響を与えました。
同時代の彫刻家 参考
- オーギュスト・ロダン 1840-1917 仏
- フランソワ・ポンポン 1855-1933 仏
- アントワーヌ・ブールデル 1861-1929 仏
- アリスティド・マイヨール 1861-1944 仏
- コンスタンティン・ブランクーシ 1876-1957 ルーマニア→仏
ブランクーシは、マルセル・デュシャンやマン・レイとも親交がありました。自分の作品を写真に記録するために、マン・レイに写真を習っていたようです。
ブランクーシの名言にこんなものがあります。
create like God, command like king, work like slave
神のように創造し、王のように指揮を執り、奴隷のように働け
フリーランスのクリエイターはこんな感じなんでしょうかね…
同年の1876年生まれの人 参考
- 画家 パウラ・モーダーゾーン・ベッカー 1876-1907 独
- 細菌学者 野口英世 1876-1928
- 彫刻家 コンスタンティン・ブランクーシ 1876-1957 ルーマニア
シュルレアリスムの創始者 アンドレ・ブルトン
1896年2月19日〜1966年9月28日 職業:詩人
出身:フランス
代表作:
- 『溶ける魚』
- 『ナジャ』
- 『魔術的芸術』
シュルレアリスムというと、絵画のイメージが強く、最初に思い浮かべるのは、サルバドール・ダリかと思いますが、もとは詩人たちによって始まったことです。因みにダリは「シュルレアリスム」のグループからは除名されています。
創始者である詩人アンドレ・ブルトンは、第一次世界大戦の頃にフロイトの心理学に触れ、ダダイズムに参加します。
…ダダイズムとは?
第一次世界大戦に対する対抗、常識や秩序に対して、否定、破壊を意味するような表現が特徴です。
しかし、ダダイズムの創始者で知られているトリスタン・ツァラと対立し、タダを脱退、新たな芸術運動を立ち上げるために実験を試みます。
1924年、『溶ける魚』という物語を刊行、その序文に「シュルレアリスム宣言」をします。その書物によってシュルレアリスム運動が広まるきっかけとなります。
…シュルレアリスムとは?
日本語で超現実主義と訳されますが、非現実的な幻想や湯夢など潜在意識の世界を表現しています。
ブルトンはシュルレアリスムの中心人物として、芸術家たちに影響を与えました。感化された芸術家、サルバドール・ダリや、ルネ・マグリット、ポール・デルヴォー、写真家のマン・レイ、感化まではいかないけれど傾注した?ピカソなど、作品からその影響が伺えます。
シュルレアリスムが徐々に縮小し、ブルトンが亡くなったのを機に自然消滅した理由として、ブルトンの率直な態度ややり方に反発を抱き、ちょっとずつ離れて行ったと考えられています。芸術運動は熱しやすく冷めやすいので、最初は個人から火がつき、人が集まり反発が起こると分散され独自の世界を追及するという感じです。
アンドレ・ブルトンの名言にこんなものがあります。
自由というただひとつの言葉だけが、
いまも私をふるいたたせるすべてである。
この言葉こそ、古くからの人間の熱狂を
いつまでも持続させるにふさわしいものなのだ
きっかけ:
あなたにとって「自由」とは何を指しますか?
同年の1896年生まれの人 参考
粟津潔のポスターデザイン
1929年2月19日~2009年4月28日 職業:グラフィックデザイナー
出身:日本(東京都)
著書代表作:
- 『不思議を眼玉に入れて―粟津潔 横断的デザインの原点』
- 『粟津潔荒野のグラフィズム』
- 『粟津潔 デザインする言葉』
1955年 26歳のときに「日本宣伝美術会展(日宣美)で、「海を返せ」というポスターで日宣美賞受賞します。
1950年代から第一線で活躍されたグラフィックデザイナーです。絵画表現のポスターや、マンガ、映画美術、空間設計など、多岐に渡るデザインを独学で習得し、沢山の言葉を書籍に残しています。
武蔵野美術大学で教鞭をとっていたこともあり、デザイン教育に携わっていたこともあります。
数冊読みましたが、粟津潔さんの文章はとても読みやすく、どれも良かったです。どれを読んだのか?忘れてしまったので、おそらくこの3冊だったというものをピックアップしました。
粟津さんは若い頃、絵の上達のために電車のなかで人物スケッチを数年されていました。数年後、見なくても形状が記憶出来るようになったという話が本のなかにありました。沢山描くとそうなるのかと思いましたが、そんなことはなく、個人差あるようです。
竹ペンを使った独特の線は伸びやかすがとても繊細です。ベン・シャーンに影響を受けていたと知り、納得します。
同年の1929年生まれの人 参考
- 童話作家 岸田衿子 1929-2011
- 牧師 マーティン・ルーサー・キング 1929-1968
- 工学者 赤崎勇 1929-
- グラフィックデザイナー 粟津潔 1929-2009
- 建築家 フランク・ゲーリー 1929-
- 前衛芸術家 草間彌生 1929-
- 小説家 色川武大 1929-1989
- グラフィックデザイナー 永井一正 1929-
- 俳優 オードリー・ヘプバーン 1929-1993
- 『アンネの日記』の作者 アンネ・フランク 1929-1945
- 特撮系キャラクターデザイン 成田亨 1929-2002
- 工業デザイナー 榮久庵憲司 1929-2015
- 児童文学作家 ミヒャエル・エンデ 1929-1995
- モナコ公妃 グレース・ケリー 1929-1982
- 脚本家 向田邦子 1929-1981
テレビ「カンブリア宮殿」の司会者 村上龍の代表作
1952年2月19日 職業:小説家・映画監督・脚本家
出身:日本(長崎県)
代表作:
- 『インザ・ミソスープ』
- 『半島を出よ』
- 『コインロッカー・ベイビーズ』
- 『13歳のハローワーク』
- 『55歳からのハローライフ』
- 『オールド・テロリスト』
武蔵野美術大学基礎デザイン科に入学し、この頃に住んでいた横田基地に近い福生での体験をもとに書いた小説『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞します。在学中に結婚し、本格的な作家活動が始まりました。
村上龍さんのコラムで面白いものがあったので、是非是非こちらを読んでみてください。
美術教師で画家だった父親が書いた育児日記を村上さんが読んだときの話です。面白いお父さんです。書かれたあった日記の内容の一部が下記です。
「小さき我が子よ、恨むなかれ。貯金する余裕もなし。樹を植える場所もなし。もちろん金もなし。精神的な支援のみだ。
だが、そうだな。何としても、独創性だけは身につけてくれ。独創性。それは貯金や植樹などよりはるかに重要なのだ」
これについて村上龍さんは…
独創性、よく使われる言葉だ。
「他人を真似ることなく、独自の考えでものごとを作り出す性質・能力」と辞書(大辞林 第三版)には記してある。
だが、その定義はかなり曖昧だ。独自の考えで作り出した物事の「価値」への言及がない。その価値を決めるのは誰かという問題もある。
「物」や「事」の価値を決める基準は何なのだろうか。
商品や製品の場合は「売れる」だけではなく、「社会を変えてしまうような革新性」ということだろうか。
きっかけ:
身につけたいものやことは何ですか?
同年の1952年生まれの人 参考
- 作曲家 坂本龍一 1952-
- 小説家 村上龍 1952-
- 俳優 イッセー尾形 1952-
- シンガーソングライター 中島みゆき 1952-
- シンガーソングライター さだまさし 1952-
- 俳優 ロビン・ウィリアムズ 1952-2014
- 宇宙飛行士 向井千秋 1952-
- 都知事 小池百合子 1952-
- 写真家 星野道夫 1952-1996
- ゲームクリエイター 宮本茂 1952-
- 映画監督 井筒和幸 1952-
2月19日 今日は何の日?365日のきっかけ
強制収容を忘れない日
1942年2月19日にフランクリン・ルーズベルト大統領により署名された大統領令9066号に基づいて日系人の強制収容が行われたことに由来します。
米国で初の助産婦になった日本人女性、伊藤里き さんは、日本人がアメリカに移住するようになったきっかけをつくった人です。
万国郵便連合加盟記念日
1877年2月19日に日本が万国郵便連合 (UPU) に加盟したことに由来します。
プロレスの日
1954年2月19日、日本初のプロレスの本格的な国際試合、力道山・木村政彦組対シャープ兄弟の試合が開催されたことに由来します。
いかがでしたか?
Wikipedia情報による、2月19日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。
素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。
素敵な一日でありますように!