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2月22日生まれの有名人と今日は何の日?*365日きっかけ誕生日プレゼント*

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2月22日フレデリック・ショパン

2月22日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。

今日はどのように過ごしますか?

お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?

そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。

 

フレデリック・ショパン代表作と生涯

1810年2月22日※~1849年10月17日 職業:作曲家
出身:ポーランド→フランス

※3月1日説もあります。

 

代表曲:

  • 『エチュード 第3番 ホ長調 op.10 別れの曲』
  • 『ワルツ第6番 変ニ長調 op.64 子犬のワルツ』
  • 『幻想即興曲 嬰ハ短調 op.66』
  • 『ポロネーズ第6番 変イ長調 op.53 英雄』
  • 『スケルツォ第2番 変ロ短調 op.31』
  • 『ノクターン 第20番 嬰ハ短調 遺作』
  • 『前奏曲 第15番 変ニ長調 op.28 雨だれ』

 

 

ポーランド前期のロマン派に属する代表的な作曲家で、「ピアノの詩人」と称されています。

1つ年下のリストはオーストリア領ハンガリーで生まれ、同時期にパリで活躍し「ピアノの魔術師」と呼ばれています。リストは74歳まで生きたのに対し、ショパンは身体が弱く39歳で亡くなっています。

 

同時代の音楽家は

 

音楽家

 

父親はフランスからポーランドにやってきた移住者で、フランス語が母国語なので、貴族の子どもたちの家庭教師や学校のフランス語教師として生計をたてていました。

ショパンは、4人兄弟の長男として生まれ、(姉1人、妹2人)幼い頃から、母や姉にピアノを習っていました。

6歳のときに耳にしたメロディーを再現しようしていたというエピソードが残っていますが、その頃から本格的にピアノの指導を受けています。瞬く間に指導者を超え、7歳の頃にポロネーズ2曲を作曲、8歳から11歳の頃に、宮殿のピアノリサイタルでデビューしたと言われています。

ショパンは、音楽家のパターンである演奏旅行で各地でまわるようなこともなく、一般の子どもたちと変わらない教育を受けています。陽気で面白い、ショパンの周りにはいつも友達がいました。

また、両親が寄宿塾を運営していたので、そこで生涯の親友と出会い、ショパンが16歳でワルシャワ音楽学校に入り、離れ離れになってしまってからも、文通を続けていたそうです。

 

ショパンが17歳のときに2歳年下の妹が突然死します。原因は結核で父親も結核で亡くなっています。ショパンも幼少期から肺結核に悩まされていました。一説によると、治療の一環として、ヒル治療をしていたようです。

 

19歳でワルシャワ音楽学校を首席で卒業、ウィーンにて演奏会開催のため、ウィーンに滞在中に、ポーランドで「11月蜂起」(ロシア帝国に対する武装の反乱)が勃発し、帰国するのが困難になりパリに向かいます。

ポーランドに戻ることなく、パリで生涯を閉じることになり、亡骸はパリの墓地に葬られていますが、心臓は姉によってポーランドに戻され、聖十字協会にて永久保存されています。

 

2月22日 フレデリック・ショパン

 

きっかけ:

よく行くカフェはありますか?

ショパンは幼少期から病弱で小食でしたが、ポーランドにいたときはカフェレストランに毎日通っていました。

今も経営しているカフェは1軒しかないようですが、そこでよくショパンが注文していたと伝えられているのが、「ラム酒とチョコクリームのムース」と「リンゴのフリッター」などの甘いものです。

ショパンのミューズ ジョルジュ・サンド

ショパンは生涯独身だったようですが、恋の話がなかったわけではありません。

26歳のときに、リストの愛人であった伯爵夫人のパーティーで、作家のジョルジュ・サンドに出会います。

サンドは当時の女性のなかでは、風変りで男装をして社交界に出入りしており、フェミニストの先駆けになった人物です。

サンドは数々の男性と恋をし、ショパンと出会ったときは子どもがいました。サンドとショパンは8~9年間、同棲しており、サンドの存在は作曲に大きな影響を与えたと言われています。この時期に作曲されたなかで、有名なのは、雨だれの前奏曲(プレリュード)、この曲は一度は聴いたことがあると思います。

2人は何故、別れたのか?サンドは小説を書くにあたり、病弱なショパンをモデルにした話を作ったようです。それを読んで、自分のことをこんな風に思っているのか…?と思ってしまったショパンの気持ちが離れていってしまったという話や、病弱であったショパンに対し、サンドは自分の子どものように世話を接していたという話もあります。

ショパンとサンドの関係を描いた映画もあります。

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画家のドラクロワは、ピアノを弾いているショパンとその横に座っているサンドの2人の絵を描いています。

 

同時代のポーランド出身者 参考

同時代のフランス出身者 参考

同年の1810年生まれの人 参考

 

高浜虚子

1874年2月22日~1959年4月8日 職業:俳人・小説家
出身:日本(愛媛県)

 

 

http://www.kyoshi.or.jp/j-index.html

http://www.kanko.komoro.org/midokoro/kyoshi.html

 

同年の1874年生まれの人 参考

 

エドワード・ゴーリーの絵本

1925年2月22日~2000年4月15日 職業:絵本作家
出身:アメリカ

特に意味をもたせないナンセンスな分野と、子どもにとってはトラウマになりそうな、教訓話(子どもが危ない目にあって怪我をしてしまう)のが特徴です。

絵のタッチが、大人好みということもあり、大人の方がファンが多いのも、特徴です。

 

代表作:

  • 『うろんな客』
  • 『不幸な子供』
  • 『ギャシュリークラムのちびっ子たち―または遠出のあとで』
  • 『おぞましい二人』
  • 『まったき動物園』

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曾祖母がポストカード作家だったことは、少なからず影響していると思われます。直接の影響は、イギリスの画家でエドワード・リア(1812-1888)をかなり意識していたようです。エドワード・リアとコラボした絵本、日本語訳になっているのは2冊あります。

 

エドワード・ゴーリーの父親は新聞記者、両親は離婚、復縁をしています。一人っ子だったエドワードは、一人で過ごすことが多く、イギリス文学を中心に本を読むことが好きだったそうです。

高校卒業後に美術学校に入学しますが、1学期が終わったときに退学し、陸軍に入隊し3年間従軍しています。除隊後にハーバード大学でフランス文学を学び、在学中に書店でアルバイトをしていました。卒業後にニューヨーク移住し、出版会社でブックデザインを担当し、自身も作家として活動しました。

12歳くらいからバレエに興味があったようですが、ニューヨークに移ってからは、バレエ鑑賞が趣味で、バレエに関する作品も多く手がけています。

絵も描けて、文章も書けるのみならず、舞台美術の演出から、映画の脚本、ポスター、テレビ番組のアニメーションと幅広い分野で活躍しました。

下記の動画は、エドワード・ゴーリーが制作した『Mystery!』のオープニングアニメーションです。

 

使用している画材

  • 紙:ストラスモア
  • ペン先:ハント#204
  • インク:インディアンインク

題材に困ったら… アルファベット!

アルファベットブック シリーズは8冊 取り組んでいます。

 

エドワード・ゴーリーは5~6匹の猫と生活していましたが、作品のなかにもよく登場します。

因みに、本日は猫の日です。
猫の鳴き声「ニャン・ニャン・ニャン」と読めることから、「猫の日制定委員会」が1987年に制定しました。

 

同年の1925年生まれの人 参考

 

沢田教一の写真

1936年2月22日~1970年10月28日 職業:報道写真家
出身:日本(青森県)

 

ベトナム戦争の撮影された『爆撃からの逃走。』というタイトルの写真を見たことがある人も多いのではないでしょうか。この写真がきっかけになり、ピューリッツァー賞を受賞しています。

13歳 中学に入学し、高校教師から写真について教えてもらい、写真をゆづってもらったことが写真家として原点だったようです。新聞配達のアルバイトをして貯めたお金で、ボックスカメラを購入します。

 

高校卒業後に、写真店にアルバイトとして就職し、働きながら写真技術を習得します。

20歳 職場の先輩で11歳年上の女性と結婚します。

21歳 上京し通信社での仕事を得て、3年後に1ヶ月の休暇を取り、自費でベトナムに渡り取材を始めます。そのときに撮った写真が『爆撃からの逃走』です。
帰国後、写真が評価されサイゴン支局に移動になり、正式なカメラマンとしてベトナム戦争の取材をしました。

香港支局に移ったのち、再びベトナムに戻り、カンボジアの取材中に襲撃を受け、34歳で亡くなりました。

 

同年の1936年生まれの人 参考

 

一人芝居の第一人者 イッセー尾形

1952年2月22日  職業:俳優・小説家
出身:日本(福岡県)

 

著作:

  • 『言い忘れてさようなら』
  • 『正解ご無用』
  • 『いつか、スパゲティ』

 

大学受験に失敗し、アルバイトの合間に読んだ新劇の雑誌がきっかけで、芝居の世界に飛び込んだのが18歳、以来50年以上、役者として続くとは思ってもみなかったようです。

役者の道に入ったものの収入が安定せず、建設作業員として働きながら深夜の公園で稽古を積み、一人芝居のスタイルを確立します。

演じることについて下記のように話されています。

僕は、映画でも、テレビでも、舞台でも、自分の仕事は「人間をつくること」だと思っています。見かけも、発想も、使う言葉も、人間関係も違う、僕とは違う人。自分の痕跡を残さずに、どうやったらその人になれるかというのをいつも考えています。

…以下省略

 

一人芝居でも映画やイラストでも基本的に、全部言葉で追い込んでいきますね。ネタをつくるときも、せりふを書く。

だから、換言すると、全部言葉ですね。絵を描く場合は、頭の中で書いているんですね。何を描きたかったのかとか、ちょっと甘いんじゃないのとか。じゃ、あそこを拡大して他は要らないから、そこだけのアップを描こうとか、頭の中で問答を書いているような気がしますね。言葉から逃げられないんだな、みたいな。

尾形さんは絵を描く、文章を書く人ですが、考えているときは全部言葉というのが、すごく興味深かったです。こちらの記事が面白いので、是非読んでみてください。

引用電通報 僕の仕事は人間をつくること

 

同年の1952年生まれの人 参考

 

ドリュー・バリモア出演の映画作品

1975年2月22日  職業:俳優・映画監督
出身:アメリカ

 

俳優代表作:

  • 『マイ・ベスト・フレンド』
  • 『だれもがクジラを愛してる。』
  • 『ラブソングができるまで』
  • 『チャーリーズ・エンジェル』シリーズ
  • 『50回目のファースト・キス』
  • 『25年目のキス』

映画監督代表作:

  • 『ローラーガールズ・ダイアリー』

 

2月22日 今日は何の日?365日のきっかけ

太子会

推古天皇30年 旧暦2月22日(622年4月8日)に聖徳太子が亡くなったことから、聖徳太子を本尊とする法会が行われます。

忍者の日

滋賀県甲賀市とお隣の三重県伊賀市と併せて忍者の里として知られることから、数字の「2」と忍者の「にん」をかけ、2月22日を「忍者の日」として2015年に制定しました。日本の各地5か所でイベントが開催されているようです。

行政書士記念日

1951年2月22日、行政書士法が施行されたことを記念して日本行政書士会連合会が制定しました。

2枚目の名刺の日

社会人が本業以外の活動を行うために2枚目の名刺を持つことを記念する日です。象徴的な2の重なる2月22日を特定非営利活動法人「二枚目の名刺」が記念日としました。働きかた改革の話が出始めた2016年くらいのことのようです。

 

 

いかがでしたか?

Wikipedia情報による、2月22日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。

素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。

素敵な一日でありますように!

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