12月19日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。
今日はどのように過ごしますか?
お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?
そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。
伊東里き 米国で初の助産師の資格を得た日本女性
伊東里き(いとうりき)はどんな人?
1865年12月19日~1950年3月14日 職業:助産師
出身:日本(三重県)
米国で初の助産師資格を得た日本女性というだけでなく、日本人がアメリカに移住したきっかけを作った人です。
誕生からアメリカに興味をもったきっかけ
江戸時代末期、三重県の片田村で生まれます。父親は医師でした。
小さい頃から書物を読むことが好き、何事にも興味を抱き、利発な少女だったようです。
20歳 父親と同じ医師を目指して上京していた兄の身の回りの世話をするために、妹と上京します。
伯父の知人である野尻政助(野尻抱影や大佛次郎の父)が横浜に住んでいたため、遊びに行ったことがきっかけで、アメリカに興味を抱くようになります。
もう一つ説があり、横浜に遊びに行った際に、アメリカ人の落し物をたまたま拾い、そのお礼として夕食を御馳走になったことがきっかけでアメリカ人に興味を抱くようになったという話もありそうでしっくりきます。
横浜在住のアメリカ人宅のメイドとして働き始めます。兄の世話を引き受けてくれる人を実家にお願いする際に、「リキ キトク スグコイ」と電報を打ち、来た人に任せたという話がありました。
22歳 東京で知り合った男性と結婚しますが、性格が合わず、離婚を決めますが、相手の男性が失踪したため、正式には離婚出来なかったようです。
24歳 仕えていた海軍大佐一家がアメリカに帰国することが決まり、誘われて一緒にアメリカへ行きます。
渡米・結婚・出産・1度目の帰国
渡米し、アメリカ人男性と結婚、長女(モヨ)を出産しますが、男性は亡くなり、女手一つで知らない土地で子育てしながら働きました。
当時、アメリカでは賃金が高く、汗水たらして働けば相当な収入が得られたようで、最初はメイドをしていたようですが、レストランをオープンさせ、渡米してから5年でリキはお金持ちになっていました。
帰国する費用も貯まったので長女を連れて帰国すると、故郷の人は、洋装のリキに驚いただけでなく、リキが話すアメリカの生活に憧れを抱くようになります。
帰国する際にお土産として持って帰ったニューカレドニア松の苗木は叔父の家の庭に植えられました。現在その場所は、「おりきの松公園」として整備され、樹齢100年以上経った今もあります。
再び渡米
リキの話で、アメリカに行きたいと願った男性3人、女性4人を連れて再びサンフランシスコに渡ることを決意します。このときの7人分の渡航費用はリキが負担しています。
30歳、サンフランシスコに上陸したリキ一行は、中華街に店をオープンし、呼び込みの1つとして海女の実演を行いますが、女性に過酷な労働を強いているように見られ、ショーは中止します。
次に考えたのは、日本画や浮世絵に興味を持っている人が多いと知り、いとこに頼み、絵を描いてもらいそれをアメリカに送ってもらいます。それが予想外に売れます。
片田村からサンフランシスコに渡った7人は二手に別れ、男性はサンフランシスコにとどまり、女性はサンタバーバラに移動してメイドとして働き始めます。
働いて得たお金は、故郷の片田村に送金していましたが、送られてきた金額が高額だったので、その後も、多くの日本人がリキを頼ってアメリカに渡ったようで、故郷の片田村は、この時期「アメリカ村」と呼ばれていたようです。
結婚・娘との別れ2度目の帰国と渡米
渡米した日本人男性と結婚するために、親族に了承を得ようと、娘のモヨと3人で再度帰国します。アメリカで成功するまで帰国しないという目標を掲げ、大変な環境で娘が育つことを望まなかったリキは、モヨを知人夫婦に預けます。
(最初の夫との離婚が成立していたかどうかは微妙なところで、2度目?3度目の結婚が正式だったかどうかは分からないようです)
晩年
アメリカに渡った日本人は、最初は順調でしたが、日本人労働者に対して、排斥運動がおこると入国禁止になり、さらに第二次世界大戦中は収容所に入れられてしまいます。
戦乱時に在米日本人に関する資料が紛失もしくは廃棄されてしまったため、リキがその後、どういう暮らしをしていたのかは正確なところは分かっていません。
メイドや喫茶店でアルバイト、生命保険の勧誘から農場経営などの職を転々とし、サンフランシスコで助産師の資格得たというところまでは分かっていることです。
娘のモヨに会いたいと手紙をだし続けますが、帰国することが出来ず、84歳で亡くなり、セントラル墓地に埋葬されました。
国策の1つとして、19世紀末から政府が海外移住を促進し、ハワイやカルフォルニアに移住した日本人は10~14万人いたようです。第二次世界大戦によって理不尽で悲しい最期を迎えることになってしまい、リキは自分が先導したことを少なからず、罪悪感を抱くこともあったかもしれないと思ったのは個人の想像です。
娘に会えない辛さや後悔はあったと思いますが、激動の時代に自分が選んだ道を逞しく生きた日本人女性が、アメリカにいたことを「12月19日 誕生日」というキーワードから偶然知りました。
すごい人を発見すると、「この人すごい!」を色々な人に伝えたいという単純な気持ちから、ドラマ化、映画化、コミック化したら、面白そうだと思いました。
きっかけ:
あなたに勇気を与える人はどんな人ですか?
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同年の1865年生まれの人 参考
- 作曲家 カール・ニールセン 1865-1931 デンマーク
- 劇作家 ウィリアム・バトラー・イェイツ 1865-1939 アイルランド
- 画家 シュザンヌ・ヴァラドン 1865-1938 仏
- 作曲家 ポール・デゥカス 1865-1935 仏
- 作曲家 ジャン・シベリウス 1865-1957 フィンランド
- 作家 ラドヤード・キップリング 1865-1936 英
才能よりも経験の深みがものを言う ジャン・ジュネの作品
1910年12月19日~1986年4月15日 職業:小説家・詩人・エッセイスト
出身:フランス
代表作:
- 『泥棒日記』
- 『公然たる敵』
- 『シャティーラの四時間』
- 『花のノートルダム』
- 『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』
売春婦であった母親はジュネを育てられないと判断し、生後7か月で手放しました。
その後、養子にだされますが、幼少の頃からやんちゃで犯罪を繰り返しました。18歳のときに軍隊に志願し入隊しますが、脱走、ヨーロッパを放浪し、30代まで犯罪を繰り返し、刑務所に収監されます。そのときに詩を書きはじめ、自費出版をします。(牢獄のなかかからでも出来るんですね)
作家のジャン・コクトーに作品を送り、才能が認められると、作品が雑誌に掲載されます。終身禁固刑が言い渡される前にジャン・コクトーやジャン・ポール・サルトルが嘆願書を書き、大統領からの恩赦を獲得し、以降、作家として活躍しました。
人見知りで有名な彫刻家ジャコメッティと交友しており、タイトル名にジャコメッティがついている本を出版しています。
何かやることに、才能は関係ないように思いますが、ジャン・ジュネみたいな人を知ると、生まれも育ちも関係なく、才能という言葉がぴったりだと思うこともあります。ですが、実際に自分が体験したことは、才能を増しますね。
同年の1910年生まれの人 参考
- 随筆家 白洲正子 1910-1998
- 日清食品創業者 安藤百福 1910-2007
- 映画監督 黒澤明 1910-1998
- 漢文学者 白川静 1910-2006
- 絵本作家 赤羽末吉 1910-1990
- 児童文学作家 レオ・レオニ 1910-1999 オランダ
- アニメーター ウィリアム・ハンナ 1910-2001 米
- 修道女 マザー・テレサ 1910-1997 北マケドニア
- 外交官 エドウィン・O・ライシャワー 1910-1990
- 小説家 ジャン・ジュネ 1910-1986 仏
同時代のフランス出身者 参考
- 物理学者 イレーヌ・ジョリオ・キュリー 1897-1956
- 絵本作家 ジャン・ド・ブリュノフ 1899-1937 『ババール』
- 詩人 ジャック・プルヴェール 1900-1977
- 作家 アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ 1900-1944
- 哲学者 ジャン・ポール・サルトル 1905-1980
- イラストレーター レイモン・サヴィニャック 1907-2002
- イラストレーター レイモン・ペイネ 1908-1999
- 詩人 ジャン・ジュネ 1910-1986
- 作家 アルベール・カミュ 1913-1960
- 歌手 エディット・ピアフ 1915-1963
- 画家 フランソワーズ・ジロー 1921
- 映画監督 ジャン・リュック・ゴダール 1930
- 彫刻家 ニキ・ド・サンファル 1930-2002
- 映画監督 ジャック・ドゥミ 1931-1990
- 小説家 フランソワーズ・サガン 1935-2004
- ファッションデザイナー アニエス・ベー 1941
細い眉毛が流行り!?エディット・ピアフの代表曲『愛の賛歌』
エディット・ピアフはどんな人?
1915年12月19日~1963年10月11日 職業: 歌手・作詞家
出身:フランス
シャンソン歌手です。
代表曲:
- 『愛の賛歌』
- 『ばら色の人生』
- 『ミロール』
- 『水に流して』
- 『パダム・パダム』
父親は大道芸人、母親はシンガーでしたが、2人は貧しく経済的にエディットを養う余裕がなかったので、母方の祖母の家に預けられます。しかし、祖母がエディットの育児を拒否したため、父方の祖母の家(経営していた売春宿)に預けられ、幼少期からそういった環境で育ったことが、人生観に影響していたと考えられいます。
10代頃から、ストリートシンガーとして活躍を始め、ナイトクラブのオーナーに見出され、店で歌うようになります。
エディットは身長が140cm強?非常に小柄だったので、「小さなスズメ」(La Môme Piaf)というキャッチコピーをつけられたのが、芸名(エディット・ピアフ)になります。歌をレコードに収録すると、一躍、歌手として知られるようになりました。
ジャン・コクトーがエディットのために脚本を執筆していたり、多くの著名人が、彼女のために歌詞を書きたいと望み、作曲家と協力し、沢山の名曲を世に送り出しました。
生涯に2度結婚し、それ以外にも沢山の恋をしましたが、一番有名なのはプロボクサーのマルセル・セルダンとの大恋愛ですが、マルセルは飛行機事故で亡くなりました。
ピアフ自身も36歳のときに、自動車の事故に遭い、痛みをとるためのモルヒネを打つことが増え、中毒にかかり、晩年は癌にもかかり、痛みとの戦いでした。
47歳で亡くなり、その知らせを受けた友人ジャン・コクトーは、ショックのあまり、心臓発作を起こし翌日に亡くなりました。
きっかけ:
シャンソンの魅力を体感してみませんか?
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同年の1915年生まれの人 参考
- グラフィックデザイナー 亀倉雄策 1915-1997
- ギタリスト レス・ポール 1915-2009 米
- インダストリアルデザイナー 柳宗理 1915-2011
- 絵本画家 ターシャ・テューダー 1915-2008 米
- 俳優 イングリッド・バーグマン 1915-1982 スウェーデン
- 劇作家 アーサー・ミラー 1915-2005 米
- 映画監督 市川崑 1915-2008
- 歌手 フランク・シナトラ 1915-1998 米
- 歌手 エディット・ピアフ 1915-1963 仏
- 落語家 柳家小さん 1915-2002
ハンガリーの絵本作家マレーク・ベロニカ
1937年12月19日 職業:グラフィックデザイナー・絵本作家
出身:ハンガリー
代表作:
- 『ラチとらいおん』
- 『おやすみ、アンニパンニ!』シリーズ
- 『もしゃもしゃちゃん』
- 『サンタクロースとぎんのくま』
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ジェイク・ジレンホール出演の映画作品
1980年12月19日 職業:俳優
出身:アメリカ
ジェイク・ジレンホールとお顔が似ているなと思う人は、複数人いて、
ライアン・ゴズリング、ジョナサン・トーゴ、錦織圭選手とか…似てませんか?
代表作:
- 『ナイトクローラー』
- 『ブロークバック・マウンテン』
- 『ラブ & ドラッグ』
- 『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』
- 『デイ・アフター・トゥモロー』
12月19日 今日は何の日?365日のきっかけ
国際南南協力デー
2004年12月の国連総会で制定された国際デーの1つです。1978年12月19日、国連総会でブエノスアイレス行動計画と発展途上国の技術協力の推進と実施が承認されたことを記念します。
日本初飛行の日
1910年12月19日に、東京の代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大尉が日本初の飛行に公式に成功したことに由来します。
実際には5日前の12月14日に日野熊蔵大尉が飛行に成功していましたが、公式の飛行実施予定日ではなかったなどの理由で「滑走の余勢で誤って離陸」であり、飛行ではないとされます。
日野大尉は19日にも飛行に成功していますが、離陸順が徳川好敏工兵大尉が日本初、とされています。
1956年12月18日に日本の国際連合加盟案が全会一致で可決され、国連加盟が承認されたことに由来します。
いかがでしたか?
Wikipedia情報による、12月19日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。
素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。
素敵な一日でありますように!