1月19日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。
今日はどのように過ごしますか?
お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?
そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。
紆余曲折のエドガー・アラン・ポー 死後の評価
史上初の推理小説はエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』で、アメリカで執筆活動だけで生計を立てようと頑張った最初の作家として知られています。(作家という職業が確立したのは、ここ200年くらいのことなんですね)
また小説に書いた事件に類似する事件がおよそ50年後に起きたことから、タイムトラベラーだったのかも?と言われています。
アラン・ポーの命日である10月7日はミステリー記念日です。
エドガー・アラン・ポーはどんな人?
1809年1月19日~1849年10月7日 職業:小説家・詩人・評論家
出身:アメリカ
代表作:
- 『モルグ街の殺人』
- 『黒猫』
- 『アッシャー家の崩壊』
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ポーという姓とアランという姓
両親ともに俳優でした。3人兄弟(2歳上の兄・1歳下の妹)の次男として生を受けました。
巡業に忙しい両親は3兄弟を父親の実家に預けますが、父親が突如、家族を捨て失踪していまい、母親は妹を出産後に、結核にかかり亡くなり、両親がいなくなった3兄弟は、兄が父方の実家、エドガーは両親と親交のあったアラン家に、妹がアラン家の友人宅に引き取られることになります。
エドガー・アラン・ポーのアランは、養子先(正式な手続きはしていない)の名前です。
陸軍に入隊
アラン家は幅広いものを扱う輸入業で成功した商家でした。事業拡大のためイギリスに渡りますが、事業に失敗しアメリカに戻ります。
エドガーは語学学習が得意で、ギリシャ語やラテン語などの古典文学に親しんでいました。開校したばかりの大学に通い始めますが、養父からの生活費の送金が送れ、生活に困窮すると、トランプ賭博に手を出すようになり、借金地獄に陥ります。
結局、大学を辞め、家にも居づらい状態にあったので家を離れ、偽名を使いながら、新聞記者のアルバイトをして生活費を得ます。居住費など生活費全般がかかることから年齢を偽って陸軍に入隊し、昇進していきます。年齢を詐称していたこともあり、勤務期間を終える前に早期除隊を希望し、除隊したあとは、陸軍士官学校に入学しようと考えていました。
除隊後 小説を書き始め、極貧生活
しかし、除隊後に希望していた学校は入学定員に達していたために、翌年まで待たなければならず、その間、暇だったので、実の兄が引き取られた祖父母の家に行くことを決めます。祖父はすでに他界しており、祖母と叔母は非常に貧しい生活をしており、お世話になることを諦め、安アパートで生活することにします。
その間、執筆活動を始め、複数の雑誌に掲載されたことから、注目を浴びるようになります。翌年、士官学校の入学試験にパスし入学しますが、エドガーが想像していたよりも自由でない生活に、がっかりします。
さらに養父が再婚するにあたって、エドガーと口論になり勘当されてしまったので、遺産をもらえない可能性が高いことから、士官学校を辞めることにします。
安ホテルに滞在したり、実の叔母の家に居候しながら、執筆活動を続けます。雑誌の短編小説を執筆し、懸賞金で生活していたようです。
賞の審査員を務めていた政治家兼作家ジョセフ・P・ケネディ(ジョン・F・ケネディの父親)と親しくなり、ケネディの推薦で雑誌編集社で仕事が出来るようになります。沢山の作品を発表しますが、創刊者とそりが合わず、入社してから1年で退職します。
その後は、困窮した生活が亡くなるまで続きました。
エドガーは26歳のときに当時13歳だった従妹ヴァージニア・クレムと結婚しますが、貧しい生活のなかで、ヴァージニアは結核にかかり14年後の27歳で亡くなります。
エドガーもその2年後に謎の死を遂げます。アルコール中毒、心臓病、てんかん、梅毒、コレラ、狂犬病など死因がはっきりしないようです。
作品が評価されたのは死後のことで、世界中の後進の作家に影響を与えただけでなく、ドビュッシーはエドガーの小説のオペラ化に挑戦したりと、音楽家にも影響を与えました。
同年の1809年生まれの人
- 開発者 ルイ・ブライユ 1809-1852 仏
- 小説家 エドガー・アラン・ポー 1809-1849 米
- 作曲家 メンデルスゾーン 1809-1847 独
- 16代大統領 エイブラハム・リンカーン 1809-1865 米
- 生物学者 チャールズ・ダーウィン 1809-1882 英
- 小説家 ニコライ・ゴーゴリ 1809-1852 露
- 11代薩摩藩主 島津斉彬 1809-1858
セザンヌ親友ゾラとは決別 友情の証りんごは絵画の中に
ポール・セザンヌはどんな人?
1839年1月19日~1906年10月23日 職業:画家
出身:フランス
同時代の画家で年齢が近いのは、
- アルフレッド・シスレー 1839-1899 仏 →印象派
- オディロン・ルドン 1840-1916 仏 →アンチ印象派
- モネ 1840-1926 仏 →印象派
セザンヌは、印象派やポスト印象派に属されますが、セザンヌの絵に影響されたゴッホや、マティスなどのフォーヴィスムの画家、ピカソはキュビスムの着想をセザンヌから得ており、「近代絵画の父」と称されています。
セザンヌの発言にこんなものがあります。
自然に線は存在しない。
自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい。
親友ゾラとの出会い
セザンヌは南フランスで銀行を経営していた父親のもとに生まれました。
13歳のときに、パリから引越してきた年下のエミール・ゾラと友達になります。都会から引越してきたゾラはいじめの標的になり、それを見たセザンヌは話しかけます。それが友達に見つかり袋叩きにあったセザンヌを見ていたゾラは、翌日、リンゴが沢山入ったカゴをお見舞いに渡します。生涯、描き続けたモチーフのリンゴはそこからきているようです。
セザンヌは幼少の頃から絵を描くことが好きでしたが、父親の希望もあり、法学部に通います。しかし法律の勉強が肌に合わず、勉強を怠けていました。
パリの母親のもとに戻っていたゾラと手紙のやり取りを続けていたため、法律家になることを諦め、絵の道に進むことに迷うセザンヌをゾラは励まし続け、パリにでてくるよう説得する手紙を送ります。
パリ編
ゾラの説得もあり、大学を中退しパリに出ますが、美術学校の入学は断られ、画塾に通うも、田舎で育ったセザンヌをからかう画家仲間に耐えられなくなり、ゾラの言葉も聞かずに実家に戻ってしまいます。
父親の銀行で働きながら、美術学校に通いますが、銀行勤めは肌に合わず、再びパリに行くことを決意します。
パリに戻っても公募展は落選続きで、父親からの仕送りで生活していましたが、生活は楽ではなかったようです。そんなセザンヌのためにゾラは、サロン評を書いて刊行し、序文でセザンヌについて触れるなど、陰ながら生活を応援していました。
20代はドラクロワ、クールベ、マネの作品に影響を受けますが、印象派の画家、モネ、ルノワール、ピサロたちに出会い、作風が変って行きます。印象派の画家が評価され、入選されているなか、セザンヌの絵は落選続きでした。
30歳のときに12歳年下の女性と知り合い、同棲を始めますが、厳格な父親に関係を知られることを避けていましたが、40歳前に父親にばれてしまい、関係が悪化、毎月の仕送りが半分に減らされ、ゾラに援助を頼みます。
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人に恵まれていた
印象派で最年長で面倒見がよかったカミーユ・ピサロの紹介で、画材屋のタンギー爺さんに出会い、セザンヌの絵を好きだと褒めてくれた爺さんは、画材の代金の代わりに絵を受け取っていたようです。そのためギリギリな生活費でもあれば、絵を描くことは出来ました。
ゾラとの関係は40年以上続いていましたが、作家として成功していたゾラが書いた小説で、セザンヌとマネをモデルにしたと思われる描写から、40代になっても評価されない自分を馬鹿にしていると思い、ゾラとの関係を絶ちます。
47歳のときに、父親が88歳で亡くなり、遺産が相続されたため、生活には困らなくなり隠居生活が始まります。
りんごや故郷のサント・ヴィクトワール山などをモチーフに制作を続けていましたが、評価されることはなかったようです。セザンヌの絵が評価されたのは、ボール・ゴーギャンをはじめする前衛的な若い画家たちによってでした。
きっかけ:
一番の親友は誰ですか?
同時代のフランス出身者 参考
- 作曲家 サン・サーンス 1835-1921
- 作曲家 ビゼー 1838-1875
- 画家 アルフレッド・シスレー 1839-1899 印象派
- 画家 セザンヌ 1839-1906 他ポスト印象派
- 彫刻家 ロダン 1840-1917
- 画家 ベルト・モリゾ 1841-1895
- 画家 ルノワール 1841-1919
同年の1839年生まれの人 参考
- 作家 ウィーダ 1839-1907 英 『フランダースの犬』
- 画家 ポール・セザンヌ 1839-1906 仏 ポスト印象派
- 作曲家 ムソルグスキー 1839-1881 露
- 実業家 ジョン・D・ロックフェラー 1839-1937 米
- 長州藩主 高杉晋作
- 画家 アルフレッド・シスレー 1839-1899 仏 印象派
セザンヌの没後110年を記念して、親友ゾラとの関係に着想された映画『セザンヌと過ごした時間』は2017年に公開されました。
伝説の女性ロックシンガー ジャニス・ジョプリン
1943年1月19日~1970年10月4日 職業:ロックシンガー
出身:アメリカ
代表曲:
- 『More Over』
- 『The Rose』
- 『Prince of My Heart』
- 『Cry Baby』
- 『Summertime』
代表曲の『More Over』はCMでもよく使われているので、親しみのある曲です。『The Rose』もいい曲です。
小さい頃から、ブルースを聴いて、地元の聖歌隊に参加していました。大学を中退し、ロックシンガーとして活躍を始めましたが、覚せい剤の過剰摂取により27歳で亡くなりました。
遺体は火葬され、上空から太平洋に散骨されました。
ジャニス・ジョップリンをモデルとした映画
- 『ローズ』1979年
- 『ジャニス:リトル・ガール・ブルー』2015年
きっかけ:
今日のBGMに「ジャニス・ジョップリン」はどうですか?
同年の1943年生まれの人 参考
- 俳優 樹木希林 1943-2018
- ゲームデザイナー ノーラン・ブッシュネル 1943
- 歌手 ジャニス・ジョプリン 1943-1970
- 俳優 森本レオ
- 俳優 北大路欣也
- コメディアン 加藤茶
- 俳優 田村正和
- ファッションデザイナー 山本耀司
- 俳優 カトリーヌ・ドヌーヴ
- 劇作家 サム・シェパード 1943-2017
- 歌手 加藤登紀子
1月19日生まれの女性シンガー
圧倒的な歌唱力と特徴のある歌声が特徴の人たちです。
松任谷由実
1954年1月19日 職業:シンガーソングライター
出身:日本(東京都)
代表曲:(カラオケで人気な曲)
- 『真夏の夜の夢』
- 『やさしさに包まれたなら』
- 『ルージュの伝言』
- 『春よ、来い』
- 『卒業写真』
- 『ひこうき雲』
- 『あの日にかえりたい』
宇多田ヒカル
1983年1月19日 職業:シンガーソングライター・ミュージシャン
出身:アメリカ
代表曲:(カラオケで人気な曲)
- 『First Love』
- 『花束を君に』
- 『Forevermore』
- 『Automatic』
- 『Flavor Of Life』
- 『Can You Keep A Secret?』
デイミアン・チャゼル監督の映画作品
1985年1月19日 職業:映画監督・脚本家
出身:アメリカ
代表作:
- 『セッション』
- 『ラ・ラ・ランド』
父親が計算機化学者で大学教授、母親作家という一家に生を受け、幼い頃から映画を作るという夢がありましたが、高校生のときにミュージシャンに憧れ、ドラムに打ち込みます。
高校卒業後に、ハーバード大学の視覚環境学部で映画製作を学び、2007年に卒業、2009年から映画監督として活躍を始めました。
2014年公開の『セッション』はミュージシャンを夢見て、ジャズ・ドラムに打ち込んだ経験が、作品に影響しています。
2016年公開『ラ・ラ・ランド』で、史上最年少の32歳で監督賞を受賞しました。
1月19日 今日は何の日?365日のきっかけ
カラオケの日・のど自慢の日
1946年1月19日にNHKラジオで『のど自慢素人音楽会』(現在の『NHKのど自慢』)が放送開始されたことに由来します。
空気清浄機の日
語呂合わせ 1(い)1(い)9(く)うき 「いい空気」から、日本電機工業会が2006年に制定しました。
家庭消火器点検の日
全国消防機器販売業協会が1991年に制定されたことに因み、1と19で「119」となることから、1月19日を記念日としました。
いかがでしたか?
Wikipedia情報による、1月19日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。
素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。
素敵な一日でありますように!