5月7日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。
今日はどのように過ごしますか?
お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?
そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。
ドイツ三大B ヨハネス・ブラームス若き日の出会い
ドイツのクラシック音楽三大Bは、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスで、ベートーヴェンの後継者として注目されていたのがブラームスです。
同時代の音楽家
- 8歳年上の ヨハン・シュトラウス二世 1825-1899 オーストリア
- 1歳年上の ヘンリー・クレイ・ワーク 1832-1884 米
- ブラームス 1833-1897 独
- 2歳年下の サン・サーンス 1835-1921 仏
- 5歳年下の ビゼー 1838-1875 仏
ヨハネス・ブラームスはどんな人?
1833年5月7日~1897年4月3日 職業:作曲家・ピアニスト・指揮者
出身:ドイツ
代表曲:
- 「ハンガリー舞曲」
- 「愛のワルツ」
- 「ブラームスの子守歌」
- 「眠りの精(砂の精)」
- 「8つのピアノ小品 Op.76」
- 「交響曲第1番 Op.68」
- 「交響曲第3番 Op.90」
ブラームスの父親は市民劇場のコントラバス奏者で、幼少期より音楽が身近にあった環境だったと言えそうです。本格的にレッスンを開始したのは、7歳の頃からでピアノの才能に恵まれ、10歳でステージに立てるまでになります。
このときの演奏を聴いた興行師がアメリカに演奏旅行を提案します。ブラームス家の家計は厳しかったので、両親は喜びますが、ピアノの先生はこれに反対します。より高い音楽教育が受けられるように、ピアノ先生の恩師である作曲家を紹介してもらいます。
紹介でもタダというわけにはいかないもので、ブラームスは13歳の頃から、レストランや酒場で、ピアノの演奏をして、家計を支えました。
その後、独学で作曲を始めますが、初期の作品はブラームス自身が認めていなかったためか?処分してしまったようです。
20歳の頃に、知り合いのヴァイオリニストと演奏旅行に行き、そこでジプシー音楽に出会ったことが、作曲する上で大きなインスピレーションにつながります。この出会いから作曲されたのが、「ハンガリー舞曲」です。
シューマンと出会う!
またこの旅行中に、すでに活躍しているプロの演奏家たちに出会い、紹介でリストに出会っていますが、特に親交はなかったようです。また23歳年上のシューマンを紹介してもらい、シューマン宅を訪問しました。
シューマンはブラームスの音楽を称賛し、ブラームスもまたシューマンを尊敬していました。シューマンはこの頃、精神疾患にかかっており、シューマンの妻クララは14歳年下のブラームスがいることで、精神的に支えられていた?恋愛関係にあったのではないか?と噂されるほど、親密な関係であったと周囲に誤解されるほどだったようです。
シューマンが川に身を投げ、自殺未遂を起こして、施設に収容されたときも、ブラームスはクララを助け、シューマンが亡くなってからも、シューマン家とは生涯にわたり親交がありました。「眠りの精(砂の精)」は、シューマンの子どもたちのためにブラームスが作った、眠り歌です。ブラームスの眠りの歌はいくつかありますが、効果ありそうです。
14歳年上で、尊敬する作曲家の妻クララと再婚するようなこともなく、この時期に婚約していたのは、シーボルトの従兄弟の子でしたが、性格の不一致か?結婚には至らず、婚約は破談します。以降、結婚の話はなさそうなので、生涯独身だったのかもしれません。
29歳 ウィーンを活動拠点に決め、作曲に集中しました。この頃から、作品が評価され始め、音楽院でも講師の仕事を得られるようになります。
45歳から50歳にかけて、イタリアにたびたび行く機会があり、トーマン・エジソンの依頼で、『ハンガリー舞曲』他を蓄音機に録音しています。これが史上初の音楽レコーディングと言われています。
50代になってから、作曲家としての限界を感じたブラームスは、遺書と作品の整理を始めたそうです。(早っ)しかし50代ですからね、まだ若いです。そんな用意を始めたにもかかわらず、若いクラリネット奏者の演奏に触発され、クラリネットのための曲を数曲、作曲しました。
63歳、長年親交を続けていたシューマンの妻クララが亡くなったあと、ブラームスも体調不良に悩まされ、翌年肝臓ガンで亡くなりました。
同時代の作曲家、ワーグナーやアントン・ブルックナーとは音楽性の反りが合わなかったようですが、ブラームスは「自分は最もワーグナーファン」と言っており、8歳年下のドヴォルザークの才能を高く評価し親交があったことから、自分とは異なる才能を認め評価できる人のようです。
きっかけ:
親交が続いている人はいますか?
同年の1833年生まれの人 参考
- 画家 フィリップ・ハモジェニーズ・コールドロン 1833-1898 英
- 作曲家 ヨハネス・ブラームス 1833-1897 独
- 画家 レオン・ボナ 1833-1922 仏
- 美術家 エドワード・ バーン・ジョーンズ 1833-1898 英
- 化学者 アルフレッド・ノーベル 1833-1896 スウェーデン
- イラストレーター エドゥアール・リウー 1833-1900 仏
公務員から転身、音楽がチャイコフスキーの人生を変えた!?
三大バレエ音楽は、「白鳥の湖」「くるみ割り人形」「眠れる森の美女」です。それら3曲を作曲したチャイコフスキーは、クラシック音楽のなかでもCMや映画、ドラマなどで使われ、親しまれています。
同時代の作曲家 参考
- 2歳年上の ビゼー 1838-1875 仏
- 1歳年上の ムソルグスキー 1839-1881 ロシア
- チャイコフスキー 1840-1893 ロシア
- 1歳年下の ドヴォルザーク 1841-1904 チェコ
- 3歳年下の グリーグ 1843-1907 ノルウェー
ピョートル・チャイコフスキーはどんな人?
1840年5月7日~1893年11月6日 職業:作曲家
出身:ロシア
代表曲:
- 「ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調」
- 「四季」 特に「舟歌」
- 「弦楽セレナーデ」
- 「交響曲第4番 ヘ短調 Op.36」
- 「交響曲第5番ホ短調 Op.64」
- 「交響曲 第6番ロ短調 「悲愴」
鉱山技師をしていた父親の次男に生まれました。父親はチャイコフスキーには学力をつけて、手に職をつけてほしいと思っていたのか?10歳で法律学校の寄宿生として、入学することになります。
14歳のときに、母親がコレラにかかって亡くなり、深い悲しみにくれます。
19歳で法律学校を卒業し、法務省(9等公務員)として勤務しますが、特にやりたい仕事ではなかったようです。
毎日、コツコツと法務省の仕事をしていましたが、21歳のときに、知人に紹介され、音楽協会の学校に入学したのを機に音楽に目覚めます。23歳で、公務員を辞め音楽に専念しました。
ほとんどの作曲家は幼少の頃から音楽に親しみ、音楽教育を受けていますが、チャイコフスキーは普通の高等教育を受け、成人してから音楽教育を受けています。
幼少期からやっていれば才能が開花するという例は多いですが、チャイコフスキーのようにいくつになっても開花する可能性もあります。
25歳で音楽院を卒業し、モスクワを活動拠点とし、音楽院で教鞭をとり、作曲活動に励みました。
この頃、ロシアでは、ロシア5人組と呼ばれる作曲家グループがあり、彼らと交友がありました。5人組のうち、ムソルグスキー、コルサコフは365日のきっかけで紹介しているので、そちらもよかったら読んでみてください。
チャイコフスキーは、オペラ歌手をしていた女性とお付き合いしており、結婚を望んでおり、婚約しましたが、翌年破局しています。(推測ですが、性格の不一致?)
35歳 ピアノ協奏曲第一番を発表
チャイコフスキーは作曲家ではあるけれど、ピアニストではないので、作曲した曲をピアニストに弾いてもらうよう依頼をしなければならず、初演を依頼したピアニストから酷評を受けます。
しかし、他のピアニストによる初演は大成功し、それがヨーロッパ各地で演奏され、作曲家チャイコフスキーの名はよく知られるようになります。
37歳 結婚
この結婚はチャイコフスキーにとって精神的に追い詰められるもので、モスクワ川で自殺を図るほど、つらかったようです。
因みに、音楽家の三大悪妻と言われているのが、
ハイドンの妻マリア
モーツァルトの妻コンスタンツ
そしてチャイコフスキーの妻アントニーナです。
そんななかでも、バレエ曲「白鳥の湖」が完成しているので、川で自殺じゃなくて、白鳥の気持ちを体験していたのかもしれません。
38歳 作曲に専念するために12年勤めた音楽院の講師の仕事を辞める。
その後、ヨーロッパ各地を転々とし、大作を作ることは出来なかったので、作曲家として専念したかった?のではなく、リフレッシュしたかった?と考えた方がよさそうです。
音楽院を退職してから、各地を旅できたのも、若き日から援助してくれたパトロンがいたからですが、50歳になるとその援助もなくなります。リフレッシュ旅の終わりは、モスクワ郊外の村に家を借り、作曲に集中しました。
51歳 アメリア カーネギー・ホールに出演
53歳 急死(死因は肺水腫)国葬されました。
同年の1840年生まれの人 参考
- 実業家 渋沢栄一 1840-1931
- 画家 オディロン・ルドン 1840-1916 仏
- 長州藩士 久坂玄瑞 1840-1864
- 作曲家 ピョートル・チャイコフスキー 1840-1893 露
- 彫刻家 オーギュスト・ロダン 1840-1917 仏
- 画家 クロード・モネ 1840-1926 仏
ポラロイドの生みの親エドウィン・ハーバート・ランド
1909年5月7日~1991年3月1日 職業:科学者・発明家
出身:アメリカ
エドウィン・ハーバード・ランドはどんな人?
ポラロイドの創業者です。
ランドさんの娘さんが幼いときに言った「撮影した写真は何故、その場でみえないの?」という一言が、ポラロイドカメラを開発するきっかけになったそうです。
きっかけ:
こどもの何故?を書きとめてみませんか?
同年の1909年生まれの人 参考
- 画家 フランシス・ベーコン 1909-1992 アイルランド
- 経済学者 ピーター・ドラッカー 1909-2005 オーストリア
- 翻訳家 ロンブ・カトー 1909-2003 ハンガリー
- クラリネット奏者 ベニー・グッドマン 1909-1986 米
- 発明家 エドウィン・ハーバード・ランド 1909-1991 米
- 小説家 中島敦 1909-1942
- 小説家 太宰治 1909-1948
- 絵本作家 ヴァージニア・リー・バートン 1909-1968 米
- 詩人 まど・みちお 1909-2014
- 写真家 土門拳 1909-1990
- 小説家 松本清張 1909-1992
本多 猪四郎
1911年5月7日~1993年2月28日 職業:映画監督
出身:日本(山形県)
エバ・ペロン労働階級に訴える演説と政策
1919年5月7日~1952年7月26日 職業:俳優・政治家
出身:アルゼンチン
マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロンはどんな人?
俳優からアルゼンチンの大統領夫人になり政治家として、今もアルゼンチンでは「エヴィータ」の愛称で呼ばれ慕われています。没後60周年を記念して2012年にアルゼンチンの紙幣100ペソは、エバ夫人の肖像が使われています。
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同年の1919年生まれの人 参考
- 小説家 J・D・サリンジャー 1919-2010
- 漫画家 やなせたかし 1919-2013
- 歌手 ナット・キング・コール 1919-1965
- アルゼンチン大統領夫人 エヴァ・ペロン 1919-1952
脚本家 野沢尚(のざわひさし)の小説
1960年5月7日~2004年6月28日 職業:脚本家・小説家
出身:日本(愛知県)
中学生の頃から映画監督になることを夢みて、自主映画を制作したいたそうですが、「映画は脚本が大事」ということに気づいて、倉本聰さんのシナリオを読み、文体を真似して書くという独学方で、身に着けたそうです。
代表作:
- 『眠れる森』
- 『結婚前夜』
- 『深紅』
http://nozawahisashi.jp/
21世紀の資本トマ・ピケティ博士「富を増やす機会平等に」
1971年5月7日 職業:経済学者
出身:フランス
5月5日は、『資本論』のカール・マルクスの誕生日でしたが、本日は2016年にベストセラーになった「21世紀の資本」の著者です。
今となっては分かっている所得と資産の格差問題は、この本が発行されるまでは、何となく暗黙の了解で分かっている話でした。ピケティは15年の歳月をかけてデータを収集し公開したため、格差問題はデータによって裏付けられました。そして所得が多いほど税率を課す、富裕層への累進課税を提唱しています。
格差問題の根本は教育にあり、生まれた環境によって受けられる教育は左右され、高い教育を受けた人が、賃金が高い職業につける傾向にあります。大学を卒業しても、本人の意思とは関係なく、タイミングや環境が不運であったりする場合もあるので、必ずしも高学歴だから、お金持ちになるとは言い切れないです。
ですが、今はお金がなくても学ぶことが出来ます。それはインターネットの発達で、動画が気軽に視聴出来る、Webサイトで情報提供をしている個人や団体が増えたためです。学ぶことにお金がかかない環境がすでに出来ています。
お金がないから、どんどん貧しくなるという連鎖は食い止められそうなものですが、そう上手くいっていないのが現実です。重要なのは得た知識をどう活かすのか?という創造と、お金に対するリテラシーがカギを握っているようです。
きっかけ:
インターネットで大学の講座を聴講してみませんか?
http://gacco.org/
西加奈子の本 代表作
1977年5月7日 職業:小説家・エッセイスト
出身:イラン
代表作:
- 『きいろいゾウ』 2013年映画化
- 『あおい』
- 『さくら』 2020年映画化
- 『まく子』 2019年映画化
- 『サラバ!』
- 『おまじない』
5月7日 今日は何の日?365日のきっかけ
世界エイズ孤児デー
2002年に国連子ども特別総会が開催されたニューヨークで制定。
コナモンの日
語呂合わせ 「5(こ)7(な)」で日本コナモン協会が2003年に制定しました。
博士の日
1888年のこの日、植物学者の伊藤圭介・数学者の菊池大麓・物理学者の山川健次郎らに25人に日本初の博士号が授与されたことに因みます。
いかがでしたか?
Wikipedia情報による、5月7日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。
素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。
素敵な一日でありますように!