3月23日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。
今日はどのように過ごしますか?
お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?
そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。
画家志望の北大路魯山人が美術家・美食家になるまで
納豆は何回混ぜますか?
北大路魯山人は自身の経験から、「納豆は混ぜれば混ぜるほどコクがでて美味しくなる」と語っていたようです。その話から、タカラトミーアーツが「魯山人納豆鉢」というオモチャを開発しました。
タカラトミーが提案する納豆の美味しい食べ方
- 納豆に醤油や辛子を加えない状態で混ぜる
- 一番美味しくなる回数を検証し、424回が混ぜるのがベスト
- 途中、硬く練り上げたら醤油を加え、さらに練る
- 最後に辛子や薬味を入れて練る
最後洗うことを考えると面倒で、好きな回数で混ぜればいいやと思いました。
納豆の食べ方もそうですが、美食家で知られる魯山人は、食べ方に異常なこだわりがあり、すき焼きもその一つです。すき焼きは、お砂糖は使わない、あまり煮込まない大根おろしとともに食べていたそうです。煮込むと、翌日に卯の花が食べられるのが嬉しいですが、この食べ方は、絶対に美味しいと思います。
すき焼きは砂糖派ですか?醤油の割り下派ですか?
お住まいの地域や、ご先祖のルーツで変わってくると思いますが、関西はお砂糖を焼き付けるのが主流なので、魯山人は自分が一番美味しいと感じる食べ方を見つけたんでしょうね。
北大路魯山人はどんな人?
1883年3月23日~1959年12月21日
職業:篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家
出身:日本(京都府)
本名、北大路房次郎は上賀茂神社の社家の家の次男坊として生を受けます。
士族の家柄ではありましたが、世襲制が廃止され、その生活は非常に貧しかったようです。父親は職を求めて京都から東京に行ったり来たりという生活をしていましたが、房次郎が生まれる数か月前に自ら命を絶ってしまいます。そのショックから?母親は生まれたばかりの房次郎を置いて失踪してしまいます。
警察官の妻が不憫に思い、生後5ヶ月の房次郎を引き取りますが、数か月後に病死し、警察官夫婦の養子であった夫婦が房次郎を引き取ります。ちょっと複雑ですが戸籍上は義理の兄と姉にあたるようです。
料理の腕はこうやって磨かれた!
しかし義理の姉は、幼少の房次郎に暴力を振っており、見かねた近所の人が、養子話を持ってきてくれたので、6歳のときに木版画職人であった家に養子に入り、福田房次郎という姓になり、33歳まで27年間「福田」の姓を名乗っています。ここで房次郎は炊事を担当し、料理の基礎や味覚を磨いたと言われています。
美術家としての基礎が築かれたのは木版画に始まる!
尋常小学校を卒業後、薬屋に奉公に出ます。お使いを頼まれた際に、料理屋の看板が目に入り、そこに書かれてあった一筆書きの亀と文字に心奪われ、絵と文字に興味を持ちます。13歳の頃に奉公を辞め、養父母に美術学校への進学をお願いしてみますが、家計の事情もあり、断念せざるを得ませんでしたが、養父の版画の手伝いが出来たことにより、画家や篆刻家としての基礎は築かれたようです。
また、この頃から書道コンクールに出品しては、賞を受賞しており、賞金で絵筆を買い、独学で絵を描き始めます。書で、西洋看板書きとしても活躍します。
20歳の頃に実母の所在を知り、東京に会いに行きます。京都には戻らず、そのまま東京で書家になることを目指し、住み込みで版下書きの仕事を得て、書家に弟子入りします。それが岡本太郎の祖父でした。
3年間、内弟子として住み込み、24歳で書家として独立します。この頃から、収入のほとんどを骨董品や外食につぎ込みます。結婚をして、子どもが誕生しても、生活を変えることはなかったようです。
33歳のときに、実兄が他界し、実母から家督相続をお願いされ、北大路の姓を継ぐことなり、北大路魯山人の号が誕生します。
北大路魯山人の性格と素顔
若干、不遇な境遇で自分にも厳しくあったと思いますが、誰であろうと、毒舌批判、ときには罵倒することもあったようです。自分が思うようにならない厳しく叱ることもあり、辞めていったお手伝いさんも多かったようです。
生涯に6度結婚しましたがすべて破綻、息子2人は早くに亡くなり、溺愛していた一人娘は、大事にしていた骨董を持ち出したことに腹をたてて勘当し、晩年まで許すこともなく、家族の関係は希薄だったようです。
人に何を言われようと、自分の意見を突き通す感じが、影響を及ぼす人物?オピニオンリーダーに共通していますよね?
きっかけ:
納豆は何回くらいかき混ぜますか?
同年の1883年生まれの人 参考
- 小説家 アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ 1883-1945
- 小説家 志賀直哉 1883-1971
- 彫刻家 高村光太郎 1883-1956
- 美術家 北大路魯山人 1883-1959
- 漢学者 諸橋轍次 1883-1982
- 政治家 ベニート・ムッソリーニ 1883-1945
- ファッションデザイナー ココ・シャネル 1883-1971
- 画家 マリー・ローランサン 1883-1956
- 画家 モーリス・ユトリロ 1883-1955
チャペック兄弟の兄 ヨゼフ・チャペックのアニメーション
1887年3月23日~1945年4月?日 職業:画家・挿絵画家・著作家
出身:チェコスロバキア
当時オーストリア・ハンガリー帝国領であったチェコの小さな町で医者をしていた父のもと、3人兄弟(姉・兄)の長男として生まれます。弟、カレル・チャペックはチェコを代表する作家です。
ヨゼフもカレルも優秀で、大学を卒業後、パリのソルボンヌ大学に留学し、パフォーマンス集団に参加し、戯曲を書きます。カレルとともにヨゼフはチャペック兄弟として、作家デビューを果たします。
ヨゼフがイラストを描き、カレルが文章を書いた絵本は、今でも読むことが出来ます。また、ヨゼフが描いた原画をもとにアニメーションが作られています。
兄弟は新聞社に入社しますが、ヨゼフはナチスに対する風刺漫画を描いたことにより、1939年に逮捕され、強制収容所で亡くなっています。
同年の1887年生まれの人 参考
- 民俗学者 折口信夫 1887-1953
- イラストレーター ヨゼフ・チャペック 1887-1945 チェコ
- 芸術家 クルト・シュヴィッタース 1887-1948 ドイツ
- 画家 マルク・シャガール 1887-1985 ロシア
- 美術家 マルセル・デゥシャン 1887-1968 フランス
- 建築家 ル・コルビュジエ 1887-1965 スイス
- 画家 小出楢重 1887-1931
- 画家 ジョージア・オキーフ 1887-1986 アメリカ
書体メーカー モリサワの創業者 森澤信夫
1901年3月23日~2000年4月27日 職業:モリサワの創業者
出身:日本(兵庫県)
高畑勲・宮崎駿監督に影響を与えた ポール・グリモー監督
1905年3月23日~1994年3月29日 職業:アニメーター・映画監督
出身:フランス
同年の1905年生まれの人たち 参考
- 画家 片岡球子 1905-2008
- 翻訳家 伊藤整 1905-1969
- 美術家 バーネット・ニューマン 1905-1970 アメリカ
- アニメーター ポール・グリモー 1905-1994 フランス
- デザイナー クリスチャン・ディオール 1905-1957 フランス
- 建築家 前川國男 1905-1986
- 哲学者 ジャン・ポール・サルトル 1905-1980 フランス
- グラフィックデザイナー 今竹七郎 1905-2000
もともとは画家志望!黒澤明監督の映画代表作
1910年3月23日~1998年9月6日 職業:映画監督・脚本
出身:日本(東京都)
代表作:
- 『羅生門』
- 『生きる』
- 『七人の侍』
- 『乱』
- 『赤ひげ』
- 『まあだだよ』
父親は体育教師で、8人兄弟の末っ子に生まれ、幼少期は非常に気が弱く、いじめられっ子でした。小学生のときに、黒沢明が描いた絵が個性的で、からかう同級生たちが多いなか、担任の先生がその絵を褒めてくれたことがきっかけで、絵を描くことが好きになり、他の学科の成績も伸びたそうです。褒めると伸びるタイプですね。
また、父親から剣道を勧められたことをきっかけに、心身が鍛えられ、小学校の卒業式で総代を任されるくらい成長します。オドオドした人には任せられませんから、学級委員長タイプですね。成人した頃の身長は180cm以上で、体格がガッチリしており、学生時代の剣道やスポーツが、身体を作ったと言えそうです。
若き頃は文学好きの画家志望
卒業後、受験に失敗し希望の学校と違う学校に入学しますが、在学中に洋画研究所に通い、絵を習い始めます。またその頃、ロシア文学にはまり、ドフトエフスキーやトルストイ、ツルゲーネフなどを読んでいました。
中学(現在の高校にあたる)を卒業後、本格的に画家になることを目指し、東京藝術大学の前身になる美術学校に受験しますが、失敗します。それでも画家になることを諦め切れなかったので、画塾に通い洋画家になることを目指し、二科展などのメジャーなコンクールに応募します。入選し、美術家同盟に参加し、本格的に洋画家から絵を習っていた時期もあります。
映画制作を学ぼうと思ったきっかけ
26歳頃に画家としての将来に見切りをつけ、たまたま新聞広告で見た、映画製作所の助監督の募集に応募し、100倍という倍率の難関を突破し、転身します。幼少の頃に、父親が映画館に連れて行ってくれたことが多かったようで、西部劇や洋画を観て育ったという環境というのも影響していると思います。
そこで映画制作を学び、当時、活躍していた映画監督からの助言で、シナリオを書くようになります。映画監督としてデビューしたのは、1943年32歳の頃で、この作品がヒットし、新人監督賞を受賞します。
1945年が終戦年ですが、1945年5月に監督として2作目の作品で出演した俳優さんと結婚しているので、この時期でも、普通に映画を撮ることが出来たんですね。検閲に送られたまま作品はすぐには公開されてはいなかったようで、戦後だいぶ経ってから公開されたようです。
1950年に公開された『羅生門』は、国内での評価は今一つだったようですが、海外では反響が大きく、ヴァネツィア国際映画賞とアカデミー賞を受賞し、「世界の黒澤」と呼ばれるようになった作品です。
黒澤明監督の性格、素顔!?
黒澤さんは、完璧主義者で妥協を許さない、厳しい演出家で知られ、複数のカメラを同時に回して撮影するマルチカムという手法を取り入れた人でもあります。これにより緊張感のある映像が撮れるので、迫力のあるシーンでよく用いられていたようです。
美食家とまではいきませんが、グルメで知られており、バランスよく食べることは心がけてはいたようですが、妻や娘が作る家庭料理や大好きな肉料理、ときには好物のスッポンを食べると機嫌が直る人だったようです。美味しいご飯はみんな好きですよね?
きっかけ:
褒められると嬉しいですか?
あまり褒められることがないと、よく分からないので素直に受け取れないことが多いです。褒めらる、けなされる、放置される、などの他者からの反応で成長することがあると思いますが、あなたはどのタイプですか?
同年の1910年生まれの人 参考
- 随筆家 白洲正子 1910-1998
- 日清食品創業者 安藤百福 1910-2007
- 映画監督 黒澤明 1910-1998
- 漢文学者 白川静 1910-2006
- 絵本作家 赤羽末吉 1910-1990
- 児童文学作家 レオ・レオニ 1910-1999 オランダ
- アニメーター ウィリアム・ハンナ 1910-2001 米
- 修道女 マザー・テレサ 1910-1997 北マケドニア
- 外交官 エドウィン・O・ライシャワー 1910-1990
- 小説家 ジャン・ジュネ 1910-1986 仏
映画音楽の作曲家 マイケル・ナイマン
1944年3月23日
職業:作曲家・ピアニスト・オペラ台本作家・音楽学者・音楽評論家
出身:イギリス
全体的に眠くなる曲が多いので、リラックスしたいときにオススメです。
3月23日 今日は何の日?365日のきっかけ
世界気象デー
国際デーの一つです。1950年3月23日に世界気象機関(WMO)が発足したことから、発足10周年を記念して1960年に制定しました。
いかがでしたか?
Wikipedia情報による、3月23日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。
素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。
素敵な一日でありますように!