4月17日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。
今日はどのように過ごしますか?
お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?
そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。
野球のルールを作った人 アレクサンダー・カートライト
1820年4月17日~1892年7月12日 職業:野球考案者
出身:アメリカ
野球の起源は正確なところは分かっていません。イギリスの球技「タウンボール」が移民によってアメリカに持ち込まれたのが始まりで、アメリカ南北戦争の際の北軍の将軍であった、アブナー・ダブルデイが発明したという説もあります。
分かっているのは、現代の野球のルールを作ったのが、アレクサンダー・カートライトです。ルールの基礎が出来たのは19世紀半ばなので、スポーツとして確立したのは、ここ100年のことと言っても、過言ではないのかもしれません。
カートライトの父親は商船の船長で、7人兄弟の一人としてニューヨークで誕生しました。
16歳でウォール街の銀行員の事務員として働き始めます。しかし、25歳のときに銀行が火災により焼失し、銀行で働くことが出来なくなってしまいます。そこで、兄弟とともにウォール街で本屋をオープンさせました。
マンハッタン地区で働く同世代の若者と、町の保全活動の一環として消防団に所属していました。消防団のメンバーと交流するために、クラブを設立します。クラブは会員制で、スポーツなどをする際のユニフォームなども用意され、試合のあとは、皆で食事をしたりして、楽しんでいたようです。
立ち上げたクラブでしていたスポーツは毎回ルールを決めていたようですが、1845年25歳 カートライトが統一したルールが出来ます。これが現代の野球のルールの基礎となりました。
4年後の29歳 ゴールドラッシュに沸いたカルフォルニアに、一攫千金を求めて、採掘に行く途中に野球を伝承していったと言われています。結局、コレラが流行したことを理由に金の採掘を諦め、ハワイに移住します。
1938年にアメリカ野球殿堂博物館が創設されました。カートライトの功績は、現代の野球のルールを作った人物として、1953年に正式に承認されました。
同年の1820年生まれの人 参考
- 野球考案者 アレクサンダー・カートライト 1820-1892 米
- 看護師 ナイチンゲール 1820-1910 英
モルガン財閥と日本との関わり 8億円?の身請け金
ジョン・ピアポント・モルガンはどんな人?
1837年4月17日〜1913年3月31日 職業:実業家
出身:アメリカ
モルガンと聞いて思い浮かぶのは、モルガン・スタンレーという投資銀行かと思います。モルガン財閥はアメリカの財閥の一つで、その創始者がジョン・モルガンです。
幼少期から数学と語学教育を受け、英語、フランス語、ドイツ語などが流暢に話せたことが、欧州の金融界の足掛かりになったようです。父親が経営する銀行を継ぎ、鉄道事業への莫大な投資と経営によって、事業を拡大化させていきました。
ジョン・ピアポント・モルガン=J.P.モルガンについては、これ以上は触れませんが、モルガン財閥は意外と日本人と関わりが深いです。
同年の1837年生まれの人 参考
- モルガン創業者 ジョン・モルガン 1837-1913 アメリカ
- 内務大臣 板垣退助 1837-1919
- 丸善創業者 早矢仕有的 1837-1901 →ハヤシライスの由来
- 貿易商 浜田彦蔵 1837-1897
- 15代将軍 徳川慶喜 1837-1913
- オーストリア・ハンガリー帝国皇后 エリーザベト 1837-1898
ジョージ・デ二ソン・モルガンとお雪
J.P.モルガンの甥でジョージ・デ二ソン・モルガンという人がいました。モルガンは30歳の頃に恋人と別れ、傷心旅行中に立ち寄った京都祇園で芸妓であったお雪に一目惚れし求婚します。
お雪には当時お付き合いしていた10歳年上の恋人がいました。そのため求婚を断りますが、結婚に承諾してくれるまで諦めないと、4年間に3度も来日し、求婚し続けました。
この話は、祇園ではよく知られるようになり、話を聞きつけた牧野省三(日本で最初の職業的映画監督と呼ばれ、映画の父とも言われています)に、「男性が本気ならば、4万~5万円くらいの身請け金を要求してみたらどうだ」と面白半分に言ったのが広まり、新聞にまで掲載され、大騒ぎになりました。
4万円の莫大な身請け金を用意したモルガンは、1904年に横浜でお雪と結婚をします。
(4万円、当時1ドルが2000円くらいの時代なので8億円くらいですかね…?)お金に目がくらんだ、「日本のシンデレラ」と新聞に書きたてられたようですが、用意できるものなら用意してみればと言ったのはおそらくお茶屋で、お雪に拒否権があったとは思えません。
モルガンは家族に紹介するために、お雪と一緒にアメリカに戻りますが、突然連れてきた東洋人の嫁に驚いた一族は冷ややかな目で2人をみていたようです。
そういう状態ですから、居心地がいいはずもなく、日本に戻り、南禅寺橋の近くにあったモルガンの別荘で、ひっそりと2年ほど暮らしていました。しかしここでもマスコミと世間の好奇な目に疲れたのか?フランスに渡ります。
結婚してから10年、お雪34歳のときにモルガンが心臓麻痺を起して他界、莫大な相続をめぐり一族と対立します。その結果、裁判には勝ち財産は得ますが、米国籍は剥奪され、無国籍のままフランスで悠々自適の生活を送ります。
1年後、陸軍士官の恋人ができ、同棲を始めますが、再婚することはなかったようです。その恋人も15年後に他界し、ニースの別荘で静かに暮らしたようです。
第二次世界大戦が始まると、フランスは不穏な状態が続いていたこと、日本に残した家族のことも心配になり、京都に戻ります。戦乱期にモルガン家からの送金も途絶え、持っていた財産は日本で差し押さえられてしまいます。
戦後、71歳のときにキリスト教の洗礼を受け、カトリック信者として静かに暮らし、81歳で生涯を閉じました。
第二次世界大戦の際に、京都が空襲に合わなかったのは、寺社仏閣が多いので避けたという説もありますが、お雪が米国の知人に頼み、京都を戦禍にしないでほしいと働きかけたという説もあります。
1月20日は「玉の輿の日」として制定されていますが、その由来はお雪とモルガンが結婚した日です。
ソーントン・ワイルダーの戯曲『わが町』
1897年4月17日~1975年12月7日 職業:劇作家・小説家
出身:アメリカ
生涯に執筆した小説や戯曲で、3度のピューリッツァー賞を受賞しています。戯曲『わが町』は上演回数の多い人気作品です。
代表作:
- 『サン・ルイス・レイ橋』
- 『わが町』
- 『危機一髪
『わが町』あらすじ
アメリカの架空の平凡の町に暮らす、ジョージとエミリーは家が隣で、幼少の頃からいつも一緒の幼馴染でした。2人は高校を卒業後に結婚し、町の人に祝福を受けます。
2人は幸せに暮らしていましたが、数年後、エミリーは産後の肥立ちが悪く命を落とし、悲しみに暮れる夫ジョージと両家の家族、エミリーはその姿を見つめ、何が一番大切なのか、ということに気づくという話です。
同年の1897年生まれの人 参考
- 劇作家 ソーントン・ワイルダー 1897-1975 米
- 映画監督 フランク・キャプラ 1897-1991
- 飛行士 アメリア・イアハート 1897-1937
- 画家 東郷青児 1897-1978
- 物理学者 イレーヌ・ジョリオ・キュリー 1897-1956 仏
- 画家 ポール・デルヴォー 1897-1994 ベルギー
- 小説家 大佛次郎 1897-1973
- 小説家 宇野千代 1897-1996
藤城清治の影絵の表現は戦後の何もないところから生まれた
1924年4月17日 職業:影絵作家
出身:日本(東京都)
著書代表作:
- 『藤城清治 影絵の絵本 グリム』
- 『藤城清治 光と影の世界』
- 『絵本マボロシの鳥』
- 『ブーちゃん』
- 『アッシジの聖フランシスコ』
NHK『美の壺』の~なつかしの影絵~という回が藤城さんを含め、色々な影絵の手法が紹介されています。プロジェクトと人の動きを融合させた影絵アートなどすごく面白かったです。
幼少期から絵を描くことは得意でした。中学生のときに、水彩画やエッチング、油絵の指導を受け、知り合いの縁で洋画家の猪熊弦一郎氏や脇田和氏のアトリエに仲間とともに遊びに行き、デッサン会をしたこともあったそうです。
宮沢賢治やアンデルセン、グリム童話が好きということが影響して、大学在学中は児童文学研究会に所属して、人形劇に携わっていました。第二次世界大戦中は、海軍予備兵として従軍し、赴任先で慰問演芸会などを行っていたそうです。
終戦後、よく見ていた風景は焼け野原になり、画材も道具も手に入らないなかで、光があればできる影絵劇という表現方法が生まれます。
『暮らしの手帖』編集長、花森安治との出会い
大学卒業後、父親が銀行員だったことから、銀行に就職することが決まっていましたが、好きなことがやりたいと、映画配給会社に入り、宣伝部にてパンフレットの編集の仕事に就きました。
映画配給会社で働いていた際に職場の近くに、花森安治さんの事務所があると知り、映画のファッションについて、映画のパンフレットに記事を書いてもらえないか頼みに行ったのがきっかけで、花森安治さんと出会います。
花森さんは、『暮らしの手帖』に関わる前、服飾雑誌や新聞に評論を書いていました。藤城さんが編集したパンフレットを見た花森さんは、「面白い」とおっしゃったそうです。それから、事務所によく遊びに行くようになり、新しい雑誌を出版するから、手伝ってほしいと誘われます。
ある日、藤城さんの自宅で花森さんと打ち合わせしていた際に、停電になり、ろうそくに火を灯しながら、影絵の話をしたのがきっかけで、『暮らしの手帖』に影絵の連載が1948年から始まり、1996年までの48年間、藤城さんの影絵の絵は、『暮らしの手帖』とともにありました。
編集長の花森さんから受けた影響は計り知れないものだったそうです。
連載が始まった3年後には、映画配給会社を辞め、雑誌の仕事と人形劇や影絵劇の公演を行うようになります。当時、20代で無名の藤城さんが仕事をするにあたり、山の手線の中吊り広告をだしてくれ、劇団に資金提供や、壁画の仕事を紹介、色々なお世話をしてくれたのも花森さんでした。
NHKと契約を結び、影絵を使った番組制作に携わり、周囲は「影絵作家」と呼んでいたことに違和感を覚え、絵や人形劇も出来ると自分で劇団を主宰していたこともあります。
藤城さんが描かれる小人の目は特徴的ですよね?飼っているネコの目を観察し、ネコの目をモチーフにしています。
きっかけ:
影で遊んでみませんか?
http://fujishiro-seiji-museum.jp/
同年の1924年生まれの人 参考
- 小説家 安部公房 1924-1993
- 映画監督 岡本喜八 1924-2005
- 歌手 越路吹雪 1924-1980
- 児童文学作家 神沢利子
- アニメーター フレデリック・バック 1924-2013 仏
- 俳優 赤木春恵 1924-2018
- 俳優 マーロン・ブランド 1924-2004
- 小説家 吉行淳之介 1924-1994
- 作曲家 ヘンリー・マンシーニ 1924-1994
- 詩人 相田みつを 1924-1991
- 歌手 シャルル・アズナブール 1924-2018
- 小説家 山崎豊子 1924-2013
- 写真家 ロバート・フランク 1924-2019
- ジャズ・サックス奏者 ポール・デスモンド 1924-1977
- 小説家 吉本隆明 1924-2012
ルーニー・マーラ出演の映画
1985年4月17日 職業:俳優
出身:アメリカ
代表作:
- 『her/世界でひとつの彼女』
- 『LION/ライオン 〜25年目のただいま〜』
- 『ドラゴン・タトゥーの女』
- 『ソーシャル・ネットワーク』
- 『キャロル』
4月17日 今日は何の日?365日のきっかけ
ハローワークの日
1947年4月17日、それまでの職業紹介所が「公共職業安定所」に改称したことに因みます。現在は「ハローワーク」と呼ばれていることが多いです。
なすび記念日
語呂合わせ 4(よ)1(い)7(な)(す)「なすびの日」として、冬春なす主産県協議会が2004年に制定しました。4月が冬春ナスの最盛期であること、4月にナスが好物であった徳川家康に献上されていたこと、徳川家康の命日が旧暦の4月17日であることなどが、理由にあげられます。
恐竜の日
1923年4月17日、アメリカの動物学者ロイ・チャップマン・アンドリュースがゴビ砂漠へ向けて北京を出発したことに因みます。その後5年間に及ぶ調査により、恐竜の卵の化石を世界で初めて発見しました。本格的な恐竜研究の始まりのきっかけをつくりました。
いかがでしたか?
Wikipedia情報による、4月17日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。
素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。
素敵な一日でありますように!